かにぼろ外套を引っかけた十四五の少年が角に立っている。並んで山高を頭にのせた中爺がいた。中爺は帽子を脱いでその中を見ながら片手でごしごし頭をかいた。帽子をまた頭へのせた。ペッ! 地面へつばした。そのとき半はだかの少年はのろのろ歩き出して傍の半分壊れた板がこいの横へ入った。崩れた煉瓦がごたごたかためてある。その中へ入って往来からは彼の姿が見えなくなった。

 通行人の六割はそこへ吸い込まれる。ホワイト・チャペル通へ出た角の六片店《シックスペンスストア》だ。二つの角に向って開く四つの扉は頻繁な人の出入につれて、大通りから穿鑿機の音響をピンの山の上、砂糖菓子の丘へあおりつけた。さじ、ナイフ、紅茶こし、化粧品類、手帳鉛筆その他文房具および装身具。その表紙では赤い寝室でピストルをもった男と寝衣姿の女が組打ちしているような小説本に至るまですべて彼らがそこから稼ぎ出した指の先ほどな三ペンス銀貨一枚で或は二枚で買えるのである。
 雑踏にもまれる店内の空気は、ヨーロッパわきがにかかっている。眼鏡部から動かぬヴィクトリア時代の女帽《ボネット》がある。頸飾売場で白ブラウズをつけた若い娘が熱心に買物を掌にかけて見くらべている。日曜日のために彼女はおそらく飲まなかった茶のいくばくかを一筋のビーズにしようとしているのだろう。地下の売場へ降りる階段二段目に二三人のちび[#「ちび」に傍点]が陣どってかたまっていた。一人が手の中へ何か握っている。頭を突き合わせてそれをのぞいていたが大人が通りかかると中心の一人はすばやくその手をげんこにして背中にまわしてしまった。この町で大人は子供の楽しみのために顧慮する時間を持っていない。土曜日だ。ロンドン市中で一足売の人絹靴下が数でこなされる土曜日である。

 |山の手《ウエストエンド》の公園ケンシントン・ガーデンの鉄柵にはいろんな門がついていた。門にはそれぞれ名がついている。プリンス・オヴ・ウェールス門。クウィーン門。そして或る門の前では巡査が立っている。夏で「ロンドンは田舎っぺえのロンドンになった」ので公園の鉄柵は塗かえ中だ。繩を張って歩道の交通を止め、職人が鉄柵のあっちこっちにつかまってペンキを塗っている。
 鉄柵の奥に散歩道があった。左右が花壇だ。草は溢れる緑だ。樹も緑だ。緑の草原は自然の起伏をもって丘となり原となり、英国のオリーヴ色がかって緑の深い樹蔭を
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