された。従業員の賃金を2・1/2パーセント切下げているうちに、鉄道事務員組合書記エー・ジー・ワークデン氏のところでは年俸二百五十ポンドが年俸千ポンドに上昇しつつある。
 ――大通からコムマアシャル街へ入ると人通りもへった。穿鑿機の音響は遠く息苦しい空気のかなたにある。しばらく行く。右側に古風な軒燈が一つ。軒燈には黒字で「トインビー・ホール」。トインビー・ホールはオックスフォードおよびケムブリッジ大学卒業生によって経営される知らぬ者のない英国セットルメント事業の本山である。暗い円天井の壁門の内側に一枚の貧児夏期学校へ寄附募集のビラがはられている。ビラは古い。破れている門を抜けると内庭がある。つたの青々からんだ塀と建物が静かに内庭を囲んでいた。「貧民法律相談所」矢のしるしが建物の裏を示している。
 内庭にも受付にも人がいない。受付の横から狭い廊下があっちへ通っていて、箒を持った働き女の姿が見えた。日本女はその働き女を呼び止めた。長方形白封筒を渡した。暫くすると別なやや知的表情のある女がその奥の暗い方から出て来た。日本女と話して引込んだ。今度はその女自身が白封筒を手にもって戻って来た。
 ――今日は土曜日でもう誰もいないからおめにかけることが出来ません。月曜日にいらして下さいな。
 ――土曜日の午後は休みなのですか?
 ――そうです。すっかり休みます。
 なるほど! 銀行会社の休日にはセットルメント事業も休日だということは知らなかった。内庭に立って古色蒼然たる蔦を眺めていたらこれも歴史的な金網入りの窓の奥に真白いテーブル掛が見えた。そこで新聞を読みつつ午後の茶を飲んでいるところの一紳士の横顔が見えた。
 ――休みの土曜の午後か。ロンドンの困窮せる人はすでにこの習慣を知っているのだろう。だから勤めの休みな土曜日の午後はトインビー・ホールへ来ず、いつか別な日に勤めを休むか早びけかにして来るんだろう。しかし、その目でモスクワを見て来た日本女はロンドン人のように忍耐強くない。
 門を出ると往来に面した掲示板に、九月二十三日開始の成人教育プログラムがはり出されていた。経済、文学、歴史、英語、仏語、独語、劇、雄弁術、美術、音楽、民族舞踊、応急救護法。一科目料金五シリング。ここでは経済という字が中世風のゴシック書体で書いてあった。

 下半身にはズボンがある。上半身ははだかのところへじ
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