い部屋の衣裳棚の鏡に、金色の反射がちらついた。往来を隔ててあちら側の丘の上にある基督救世主寺院《フラム・フリスタ・スパシーチェリヤ》の金の円屋根《ドーム》から春の光が照りかえした。
モスクワ市の上を飛行機でとぶ、低く、低く。そして市中を見下ろす。人は、昼間はともらぬ「イズヴェスチア」のイルミネーションは一つで、あとは無数の寺院でちりばめられた古風な、宗教的モザイックとしてのモスクワ市を観るであろう。
彼の操縦者が用心深くよけてとんでいる低空障害物は、事務所建築《オフィスビルディング》のコンクリートの平屋根でも煙突でもない。寺院の高い尖塔ときらめく十字架だ。
双眼鏡のレンズをとおして、もっとも平和的な彼の常識へも映って来る一つの結論がある。――成程、こりゃえらいもんだ!――そして、イリイッチが宗教は阿片だと叫んだ必然の原因が、特にこのモスクワを持つ民衆の心にあるのを認めるであろう。モスクワの街裏にある小さい、古い御堂の或るものは実に理性なき美で通りすがりの旅行者をも魅する。これは北、これは南だが、髪へ桃色の花房を押したタヒチ土人の娘の、裸の黒い原始な皮膚の美が、モスクワの御堂のごちゃごちゃした、灯かげのチラチラする蝋くさい洞の中にある。
復活祭《パスハ》の夜、総ての劇場とキネマが閉され、大劇場のオペラ役者は基督救世主寺院《フラム・フリスタ・スパシーチェリヤ》で聖歌を歌う。労働新聞は一週間前にこの事について時評を書いた。――「労働者は何処へ行くんだ? 教会か? 芝居か?」――この問題は我々の興味をもひいた。何故なら、労働者は日頃反宗教教育を受けている。古い民族的祝祭が一九二八年にどのような新形式と内容をもって現れるか、СССР生活に目立つ一つのくさびでなければならない。
アルバアト広場に電車が停る。乞食が車内へ入って来た。彼は腰から下がない。胴の末端は四角い板で、板の下に四つの水車輪がある。両手にローラースケートをはいて、
――|助けてくれ《パマギー》、|不幸な者を《ニェシャーッツヌイ》。|助けてくれ《パマギー》――
彼は若い。永久の憤りが彼の眼の中にある。
雑誌売子が来た
――鰐《クロコジール》! |一等面白い雑誌《サアモイ・ヴェーショールイ・ジュルナール》、クロコジール! 五カペイキ! クロコジール!
СССРの皮肉の諧謔の好標本である『鰐《クロコジール》』は、復活祭《パスハ》号である。表紙にこんな絵がある。緑色シャツの労働者が白布を頭にかぶって水の入ったバケツをさげて歩いて来た。女に訊いている。
――お前、今日クラブの反宗教演説《アンチレリギオズヌイ・ドクラード》へ行くかね?
――沢山だよもう、あんな宗教《レリーギア》! お寺へ行く方がよっぽどましだわ――今日あすこフェイエルベルクが出るのよ。
復活祭[#「復活祭」に傍点]の前日、ほとんどすべての食料品販売所でパンの棚と酒棚が空ッぽになった。そんなことを予想しなかった日本女のところにはパンが無い。
労働新聞の論説にかかわらず、十四日の晩はキリスト救世主寺院の四方の壁に数百本の蝋燭がともり、オペラ役者が聖歌を歌った。大群衆が石段につめかけ、手車のくるみ売りは午前二時の凍った坂道でいい商売をした。
ルイコフの名によるクラブ、その他モスクワじゅうのクラブではその夜、楽隊が鳴った。コムソモーレツとコムソモルカが、チャールストンを踊った。ルイコフの名によるクラブの広間《ザール》の壇上装飾は、聖書、十字架、僧冠などの赤い色電気により焚刑《ふんけい》の光景だ。周囲の壁は、反宗教的諧謔の壁新聞ではりつめられ、今夜、午前五時までダンスという掲示が出されている。電車は満員で、煙草屋さえ店をしまった暗い街頭をはしった。
基督《キリスト》救世主寺院の大理石のいしだたみの上では群集のうちに小ぜり合いがあった。布《プラトーク》をかぶった若い女が、遠くの祭壇の儀式の様を眺めようとして聖旗につかまり、その台にのっかって伸び上った。てのひらにともした蝋燭の光で下から顔を照らされた老婆が、片手でその女の外套のひじを引っぱった。
――何《チトー》。
――下りなさいよ、そんなところに乗っかって。
――何故《パチェムー》。
婆さんは自分の連れに横目をつかい、痩せた肩を揺りあげた。
――壊れるといけないからさ。――第一足場にする場所じゃないじゃないか。勿体ない。
――聖壇へのっているんじゃありませんよ。
――同じことだ。
矢張り蝋燭の灯をかばいつつ立っている男が、聖旗台の女に向い手を振った。
――|止めろ《パストーイ》。
布《プラトーク》をかぶった女は動かず、周囲の人群を見下して恐ろしい顔をした。そして低い早口の悪態を投げつけた。同じ聖旗につかまっていたもう一人の女が静にそこから下りそうにした。白布《プラトーク》の女はその腕を捕え、下ろさない。――彼女の上半身が、恐らくはクラブの新教育とともに心臓のある肋骨のすれすれ下のところぐらいまで教会スラブ語から脱皮しているのは確かだ。彼女は古風にてのひらへ蝋燭をつけて立って居る婆さんや男のように、聖旗から立ちのぼる宗教的霧などは認めない。金繍でパカパカした旗は要するに旗で、彼女が足台に必要とする一尺五寸の高さを丁度その支台が持っている時、どうしてそこへ登って悪いということがあろう。まして支台は一人や二人の女を載せて充分頑丈である場合。
彼女の論理の終点から出直して、然し、私は日本のギリシャ教なき心に感じる。СССР婦人市民《グラジュダンカ》らしく闘志つよき彼女は何故そのように熱烈に一尺五寸の足台が欲しいのだろうか。何故小半町も遠い彼方の祭壇で往ったり来たりする大蝋燭のかがやきと僧冠の天辺だけを群集の頭越しに眺めて満足することは出来ないのか。彼女が革命までに食べた復活祭の色つけ卵の数だけ、彼女のうちで鐘の音とともによみがえる何ものかがあるのだ。非常に微妙な何ものか、説明し難い何ものか、それが彼女を狩り立てる。聖旗台によじ登らせる、僧正が十字架を捧げて屈んだり伸びたりするその光景[#「その光景」に傍点]を見ないでは、СССРの新|文化《クリトゥーラ》の大気中に1/3だけ脱皮した彼女の魂《ドゥシャー》がたんのうし得ないのである。
総ての権力をソヴェトへ。――赤いプラカートが十月の風にはためいて街の上にあった。それ以来、СССРの標語《ローズング》は様々に推移して、現在では、元の蝙蝠《こうもり》座、今の第一諷刺劇場の幕切れにまで赤い布が出る。白い文字がその上にある。文字は左から大きく工業化《インダストリザーチア》へ! メー・デーにモスクワ全市電車が休んだ。自動車と辻馬車も殆ど影を見せぬ市街に、旗、音楽、八十万の行列の赤い波、合唱がモスクワ河をはさんで溢れた。地には埃、空には飛行機、陽気な人なだれを縫って、トラックが一台通った。女が二人のって、ビラを撒いた。ビラはクレムリン城壁の下の芽ぐんだ菩提樹の根にも散った。散り乱れて、インクは春の光に工業化《インダストリザーチア》! インダストリザーチア! タワーリシチ! 工業化《インダストリザーチア》※[#感嘆符二つ、1−8−75] ウラー。
芝居の演出法として、幕切れに出るプラカートは、既に新鮮さを失いかけている。観客席からいきなり役者が飛び出す方法とともに。ロシア人の好きな黒パンがでかい[#「でかい」に傍点]ように、ここでは何でもふんだんだ。プラカートと観客席から飛び出す役者まで、或る場合ノンセンスな程、モスクワの舞台にはうんとある。けれども、標語は反対に、安全デーという標語《ローズング》以外のものを知らぬ東京で想像する以上に社会精神の重大な尖端をなしている。標語《ローズング》はその時の政策の要点を示すばかりではない。例えば、アメリカからの雑誌記者がベルリンに向ってシベリア鉄道に乗った。万国寝台車の中で彼は暇である。銀貨入れを出して小がね勘定をする。ハルビンで米貨を留《ルーブル》に替えた時、彼はどの位損をしたか、得をしたか?――見ると、ロシアの金は五十カペイキの銀貨から一コペックに到るまで、鎌と槌標とを取まいて文字がかいてある。СССР――これは分り易い。英語になおせばUSSRだ。後の文句はプロレタリイという語で始る。彼がもしポケット露語字典一つ持っていれば、彼の財布に鳴るすべての露貨が「全世界のプロレタリイ、団結せよ!」というマルクスの言葉をもって鋳型から出ていることを理解するであろう。シベリア鉄道の食堂の数百の皿も、鎌と槌とこの標語《ローズング》をもっている。モスクワで汽車を待つ数時間ホテルに坐るなら、ホテルのあらゆるインク・スタンドは、ペン台の上に「プロレタリイ・フセフ・ストラン・ソエジニャアイチェシ!」を浮上らしているのを見る。――全露に国営のホテルはいくらあるか。各々のホテルには幾室あるか。つまりこのようなインク・スタンドだけでも何十万箇無ければならないかと考えた時、そして、СССРは僅か十年を革命後経たばかりであるのを考えた時、彼の心に来る印象は軽くない。政権とは、その最小末端に於てさえ、なお新鋳の、その上には好みの標語を書くことのできる数十万のインク・スタンドを意味するということを、彼は明かに我目に観る。――印象は、ベルリンへ着いて自身の恐るべき独逸《ドイツ》語で頭をひっかき廻された後も、彼の精神の上に遺るであろう。
「生産の合理化」「工業化」は目下のСССРにとって、深大な意味をもつ標語である。ロシアは農業の国だ。一人の労働者に対して八人の農民がいる。
遠大な目的で、白海から黒海を繋ぐ水路としてドニエプル河に発電所と堰堤《ダム》工事を起した。堰堤《ダム》は総延長七六六・七五メートルになるであろう。竣工すれば全СССРの産業能率はいちじるしい増進を見、一年少くとも五百万|頓《トン》の石炭を節約することが出来るであろう。これらすべての有益な出来るであろう[#「出来るであろう」に傍点]を実現する為に必要な幾つかの発電機の支払いは、СССРに於ては間接に輸出された小麦の幾袋かを意味する。小麦を蒔いて、刈って、袋につめるのは農民の仕事だ。鷹揚そうだがプーシュキンさえ見逃さなかったバルダの知慧で|俺のこと《マヨー・ジェーロ》は抜からぬ農民魂で、彼等はどのように経済関係を理解して居るか。
復活祭前までモスクワ市はバタの欠乏に困難した。ホテルのバタ切が次第に薄くなり、牛乳製品販売所の前から厳寒《モローズ》の中を一町以上も籠を下げた女子供の列が続いた。
――どうしてこんなにバタが足りないの?
――田舎の牝牛が眠っているから。
眠っているのは牝牛ではない。牝牛を飼っている農民の手であった。彼等は一キログラム二ルーブリ四十カペイキ位の公定相場で自家製バタを手放すことを欲しなかった。ただし、その払底の間にも、個人が営む売店の棚の下には、大切に紙に包まれたバタがあった。二百グラムで六十カペイキ、又は七十カペイキで売るバタならあったのだ。
工業化は、ドニエプル河岸に幾箇かのモーターを据えつけようとする。人間の爪は時々きる必要があるものだという日常衛生の知識から始って最高度のイデオロギーまで「文化の革命」へ全СССРは急がなければならない。レーニンも時には南京虫に喰われたであろうというところに、ロシア文化の独特な性質がある。モスクワを中心として、八方へ新文化を放射しようとする。芝居の形で、キノのスクリーンによって、クラブ教育によって、観察の要点を知った者が国立出版所で四十五分費せば、現代СССРがいかに熱心に組織立てて三カペイキ―十五カペイキで「ラジオ組立法」から「何故СССРには二つの党が存在し得ないか」という問題に関する迄の知識を普及させようかと努力して居るかが理解されるであろう。アンリ・バルビュスの新作はフランス語を知らぬ工場のタワーリシチも二十五カペイキの『小説新聞《ロマンガゼータ》』の上でただちに読める。
今まで文字を持たなかったカフカーズの山奥で、新アル
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング