ファベットをつくる計画が起った。同時に、シベリアから一つの投書がモスクワへ届いた。「私の村にはまだ一つも学校が無い。昔の通り耳学問やわずかな独習で我慢しなければならない。一日も早くこの状態から救われたいものだと思う。」ロシアの地面はそんなに尨大である。辺土まで文化を届かせる為にも、中央の圧力を高く、高く。
モスクワ市をかこむ環状|並木道《ブルヴァール》は今美しい五月の新緑である。ストラスナーヤ広場からニキーツキー門まで柔い菩提樹《リーパ》の若葉がくれに、赤、黄、紺、プラカートの波が微風にふくらんだ。並木道の左右に売店が並び、各々が意匠した店名を、「アガニョーク」「ゴスイズダート」青葉の下にかかげている。これはモスクワの書籍市だ。菩提樹《リーパ》の新緑、空のプラカート。構成派風な売店の塗料の色彩、すべて新鮮だ。アーチをくぐって無数の市民をひきよせる。樹蔭のベンチにいると、モスクワ読書人をなしている男女のあらゆる分野、年齢の見本を――教授、作家、労働者、学生、今は絵本をかかえて勇み歩く将来のピオニェールまでを包括する党員などの、鳥瞰図を、実に種々雑多な彼等の服装とともに眺め得る音楽がある。アイスクリーム屋が赤、青、白、縞の小屋で陽気に商売している。短篇小説或は色彩多い諧謔曲《スケルッツオ》のモーティフが日光とともにきらつくような活溌な光景のうちに、我々はヴェレサーエフの「アポロとディオニソス」を六十三カペイキで、「解放されたドン・キホーテ」をたった二十カペイキで買うことが出来る。――丸善の二階と、潰れたボリソフ書店の目録から、どうしてこのような書籍のこころよい氾濫を想像できよう!
文化の革命へ参与する印刷物のСССР的精力の代表はデミヤン・ベードヌイの詩だ。プラウダ新聞社の輪転機は、日曜日とメー・デーとを除いて毎日廻転して居る。ベードヌイの詩作はほとんど常に輪転機と共に! ベードヌイは部屋着姿で新聞をひろげる。恐らくその新聞の二面の左肩には彼の昨日の詩がのっているだろう。五月一日、ワルシャワで殺された労働者の写真が出ている。彼はそれを視る。感じる。数行の横書文字が書かれる。翌日その詩は新聞に出るであろう。
文化の革命に参与する他の端には労働通信員《ラブコル》、村落通信員《セルコル》がある。「通信は正確な場所、時、多数者の生活と関係ある事実を必要とする。空想、空虚な革命的字句、外国語をさけよ。常に事実を書け」労働者は、身元証明帖、クラブ会員証の間から、さらに一つの体温で暖い手帖をとり出し、さて尖《さき》の太い鉛筆を何度も何度も紙の上で振りながら、安全装置をほどこされぬ上靴製工場のガス中毒について書くだろう。一〇〇〇語を、いかに有効に使うべきか。三番目の書きなおしを、半地下室の彼の住居にたった一つあるテーブルの上でやっている時、ある合宿所では、コムソモーレツのミラノフが、同僚と議論をたたかわしている。彼は酒を飲まない。煙草も吸わない。ただ南方チフリス生れの青年ミラノフは花なしではやっていけない。鉢植の花を買って彼は窓に置く。室が一鉢の花で居心地よくなったのに、仲間は彼を嘲弄し、そして花をすてた。
――お前はブルジョアだよ。お嬢さま[#「お嬢さま」に傍点]だよ。商人根性《メシチャンストヴォ》!
しかし、商人根性とは何か。清純を好むのは商人根性か? エム・オルガノヴィッチはこのСССР風な偏見打破のために労働新聞へ投書する必要を認めた。
蹴球《フットボール》が好きで、ラジオ組立ての上手なコーリヤは、市立銀行の三階にある家で、新聞を読んでいた。テーブルの中央に彼が直したスタンドがともっている。母が向い側でドイツ語の論文翻訳をしている。母はよく働いた。コーリヤは母を尊敬している。コーリヤの見ているイズヴェスチヤの第一面には大見出しで、「パジシャフ・アマヌル・ハンのモスクワ到着」という記事が写真つきで出ていた。「停車場に於けるアマヌル・ハンとタワーリシチ、カリーニン、ヴォロシロフ、カラハン」「自動車上のカリーニンとアフガニスタンのパジシャフ。」軍服の、黒い短い髭をはやした円顔の王の隣席で、中折帽をかぶった白い髯のカリーニンが下を向いて何か見ている。「停車場を出んとする王、カリーニン、ヴォロシロフ、並アフガニスタン大使」最後に、「停車場前の閲兵」。――コーリヤは、パジシャフの敬礼の仕振りや、光った長靴やらを少年らしくじろじろ眺めていたが、いきなり、
――ママ!
母を呼びかけた。
――なに。
――ママ、何故こんなにパジシャフを歓迎するのさ。自分の皇帝《ツァー》は悪いって殺しといて、何故よその皇帝《ツァー》は歓迎するのさ。
――…………………。
母は答えない。
――ママ!
髪のほつれた頭を仕事にうつむけたまま母は短く答えた。
――外交に必要だからだよ。
日本女の部屋のテレスの欄干に雨のしずくがたまった。昨日雨が降った。今日も雨が降る。五月の雨である。
日本女は、そこに六ヵ月生きたモスクワから、新生活が始まったばかりのロシアを強く感じている。СССРは、二十世紀の地球に於て他のどこにも無いよいものを持とうとしている。同時に他のどこにも無い巨大な未完成と困難を持っている。
モスクワ河から風が吹いて電線がゆれた。電線の雨のしずくが光って落ち、基督救世主寺院の散歩道で、空っぽのベンチが四つ、裸の樹の枝のかなたで濡れている。こうもりをさした人が通った。市民《グラジュダニン》ルイバコフの台所ではさぼてんが素焼の鉢の中で芽をふき、赤い前かけの女中ナーデンカはパン粉をこねている。下宿人、ミハイル・ゲオルクヴィッチ、いつもきっちりしたなりをして革の時計紐をそった胸につけているが、タシケントにある家屋の買いてを見つけることは不可能になった。彼の子を一人持った女が千三百ルーブリの扶助料《アリメント》不払いに対してミハイル・ゲオルクヴィッチを訴え、法廷はタシケントの家を差押えた。室にあるトルコ刺繍も四百ルーブリではなかなか売れない。
二人の日本女は海のあるレーニングラードへ出発するだろう。
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附記[#「附記」はゴシック体] 新しいロシアに就ては未だ沢山書きたいことがあるし、又書かなければならない事がある。モスクワ生活の印象としてもこれは一部分だ。芝居のことその他は続編として別に書きたいと思っている。(五月三十日前後から、モスクワに白パンが無くなった。天候は不順で寒い。)
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[#地付き]〔一九二八年八月〕
底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
1980(昭和55)年9月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
1952(昭和27)年12月発行
初出:「改造」
1928(昭和3)年8月号
※「――」で始まる会話部分は、底本では、折り返し以降も1字下げになっています。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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