モスクワ印象記
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)韃靼《だったん》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)――|中国の女《キタヤンキ》?――
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)ストロー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤ
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トゥウェルスカヤの大通を左へ入る。かどの中央出版所にはトルキスタン文字の出版広告がはりだされ、午後は、飾窓に通行人がたかって人間と猫の内臓模型をあかず眺める。緑色の円い韃靼《だったん》帽をかぶった辻待ち橇の馭者が、その人だかりを白髯のなかからながめている。
中央電信局の建築が、ほとんどできあがった。材料置場の小舎を雪がおおっている。トタンの番小屋のきのこ屋根も白くこおっている。
――ダワイ! ダワイ! ダワイ!
馬橇が六台つながって、横道へはいってきた。セメント袋をつんでいる。工事場の木戸内へ一台ずつ入れられた。番兵は裾長外套の肩に銃をつっている。
長靴に二月の雪をふみしめ、番兵は右に歩く。左に歩く。しかし歩哨の地点からはとおく去らず、彼は口笛をふいた。交代に間がある――。日曜に踊った女の肩からふいと心の首を持ちあげたとき、番兵は向う側の歩道をゆく二人の女を見た。大股に雪の上を――自分の女の記憶のうえをふみしめるのを瞬間わすれて、番兵は自分の目前を見つづけた。
――|中国の女《キタヤンキ》?――
一人の女は黒ずくめ。一人の女は茶色ずくめ。毛皮の襟からでている唇をうごかして彼女たちは番兵の理解せぬ言葉をしゃべり、黒ずくめの女の方が高笑いをした。
番兵は銃をゆすりあげ、さらに女たちの後姿をみまもった。街の平ったい建物のみとおし。後から取りつけたに違いないバルコニーが一つ無意味に中空にとび出している。したに、
ホテル・パッサージ[#「ホテル・パッサージ」はゴシック体]
電気入りの看板がでていた。バルチック海の春先の暴風がおこる朝、この看板はゆれた。そして軋《きし》む。黄色い紙にかいた献立が貼りだしてあるそのホテルのばからしくおもいドアを体で押しあけて、先ず黒ずくめの女がはいった。つづいて、茶色外套の女もはいってしまった。――バング!
肉入饅頭《ピローシュカ》売りがきた。彼が胸からつるした天火のゆげが、ドアの煽りでちった。同時に肉入饅頭《ピローシュカ》の温い匂いも湯気とともにちる。
番兵の、田舎の脳髄のひだのあいだで東洋女の平たい顔の印象がぼやけた。ただ好奇心の感覚が、漠然神経にのこっている。その時、永いあいだ立っている橇馬が尾をもたげ、ここちよげにゆっくり排泄作用をおこなった。雪解けの水にぬれたむかい屋根の雨樋にモスクワの雀がとまって、熱心に、逞しい馬の後脚の間に落ちたできたての、湯気のでる餌をみはった。
ホテルの四階のはしに、日本女の部屋があった。下足場に棕梠がおいてある。そこから日本女の室まで七十二段、黒・赤・緑花模様の粗末な絨毯がうねくり登っている。昇降機はない。あってもうごかぬ昇降機がモスクワじゅうにたくさんある。日本女は一日に少くとも二百八十段上ったり下りたりした。そのたびに事務室《カントーラ》の前をとおりすぎた。事務室《カントーラ》の白い戸には三越の文具部にあるインク・スタンドの通りな碧硝子のとってがついていて、執務時間第八時より第十二時。第十四時より第二十二時と掛札が下っている。新モスクワの生活法を、レーニンの大写真が眺めている。
四階の手摺から下を見下すと、下足場の棕梠の拡った青葉のてっぺんと、その蔭に半分かくされたテーブル、うつむいて上靴《ガローシ》をはいている女の背なかまで一つの平面に遠くみおろせた。棕梠があるから、人はここから身を投げても死ぬことはできない。
一人の日本女は、一日のうちになんどもそこから下をのぞいた。
夜になると、小さい花電燈が二つ点いた。廊下は静かだ。よく女中《ゴールニーチナヤ》が手摺のそばに椅子を持ちだし、キャラコのきれに糸抜細工《ドローンワーク》をやった。女中《ゴールニーチナヤ》は痩せている。栗色の毛をかたくくるくる巻きにしている。海老茶色のジャケツをきて小さい耳飾をしている。日本女は、てすりによりかかり、文法没却法で彼女と話した。
――今夜寒い。
――|寒い《ホーロドノ》! 貴女の部屋は? 温くありませんか?
――部屋は温い、もちろん! ここ、廊下にいて寒くない? あなたの家は温い?
――温い。西日がさす。温いけれど夏はやりきれない。
――西日は体によくない。
――よくない。
――丈夫? あなた。
――肺がわるい。――二期――分ります? 私の云うこと。ここ、肺、ね。私は技術がないから他の働きができない。
サナトリアムは満員だ。日本には肺の悪い人がいるだろうか。流感《グリップ》がこんな置土産をしていった。三期になったらサナトリアムへ行けるだろう。そんな話をする。
廊下の白い壁に質素な円時計がかかっていて、半時間ごとに、彼女たちの頭のうえで時を打った。その時計の鳴る音を、日本女は床の中で眠らず六つまできくこともある。雪と煤煙とのモスクワ、きたなさのうちに美しさがある居心地よいモスクワの日の出は七時半だ。
一九二〇年には百二万八千であったモスクワの人口が一九二六年に二百一万八千に増大した。この結果、モスクワでは、四つの世帯がたった一つの台所しかない貸室《クワルティーラ》に生活を営み、あらゆる小学校は二部教授をさずけ、Yと私とはすでに二ヵ月、ホテルの一室に生活しつづけなければならないことになる。毎日、事務室《カントーラ》の青羅紗の上に、我々は六ルーブリの宿料と、一割の税とをおく。金庫をひかえて坐っているトルストフカの事務員が、一枚の受取をよこす。受取の裏には、普通のホテル取締規則のほかに、宿泊料は一日ごとに支払うべきこと、たまればたまった金高に応じ割合の高い税の附加されることを印刷してある。私があるいはYが、夜の第二十一時五十分になってハッと思い出し、最大速力で事務室《カントーラ》へかけ下りるのも、それ故無理ないしだいではないか。貸室《クワルティーラ》は一杯だ。ホテルには空いた部屋がある。そこへも行かずYと私が一室に起居をともにし、読書をともにし、通風口の開けられない夜中は、たがいのはく炭酸瓦斯さえわけ吸って居るのは、モスクワの人口過剰に比例して軽い我等のポケットが最大原因だ。我々は、シベリア鉄道以来の練習でできるだけたがいの存在を神経の埒外に放逐し、ながいモスクワの冬のよなよなを暮す。しかし、私はものが書けぬ。Yは無遠慮に発音練習をやることができない。これは不便だ。しかも、厳然たるわれらの経済が結論するところの不便だから、Yも私も、互に向ってヒステリーを起す権利がない。私は自分の内攻的ヒステリーを少し整理して、田舎者のハンカチーフのような青格子縞のテーブル掛の上で考える。
私の胸のうちでは日本が、極めて心臓に近い場所でなんともいえず脈々と動きはじめる。黙って頬杖をついてテーブル掛の麻糸のほつれをぽつねんとよってはいられなくなる。私はYを呼ぶ。
彼女は、縞の、シベリア鉄道でアメリカ女がそれを見て蔑視したところの、厚ぼったい、男もの見たいなうわっぱりの中から、私を振向く。私は多くの賢いこと愚かなことをとりまぜ、しゃべり出す。やがてYも椅子を向けなおし、彼女の常戦法である「違うよ、そうじゃあないさ」をもって進出してくる。それから後、我々がどんなに、どんなことについてしゃべるか――ホテルの薄緑色の壁ばかりが知っている。
この時、ホテルの廊下の隅の女中《ゴールニーチナヤ》のところでけたたましくベルが鳴った。戸棚の前で、女中は印度の詩人の室に撒く南京虫よけ薬を噴霧器に移した。女中はそれを下へおき、日本女の部屋の閉った扉を通って隣室へ行く。
三分後、白前掛をかけ、鼠色シャツを着た海坊主のような食堂給仕が、手すりにつかまり二段ずつ階段をとばして下から登ってきた。彼は若くない。肥った。息が切れる。新しくないサルフェトカで風を入れつつ六十二号、日本女の隣を開けた。ホテルにはプロフィンテルンの代表者が一杯泊り込んでいる。あちらにも代表員《デレガート》! こちらにも代表員《デレガート》! 代表員《デレガート》は長靴のまま長椅子に寝る。代表員《デレガート》の食事はただである。平常はテーブルに白い紙をかけ、色つけ経木造花で飾ってあるホテルの狭い食堂は、代表員《デレガート》がいる時食卓に本ものの布のテーブル掛がかかる。きちんと畳んだ新しいサルフェトカと、いい方の、光って重い揃いのナイフやフォークがいつ行って見てもならんでいる。海坊主の給仕は大盆をかたげ、あるいは空手で絶えず白前掛をひらめかせ代表員《デレガート》の胃袋充填をして廻らなければならない。彼は不機嫌である。
日本女は、茶が飲みたくなった。日本女は扉をあけ、廊下へ半身だした。隣室の扉も開いている。各々食物を注文する数人のがやがやする声と、海坊主が「|宜しい《ハラショー》、|宜しい《ハラショー》」答えている声がする。ついに給仕が廊下へで、日本女が口を利こうとした時、追っかけてさらに一人の代表員《デレガート》が室内から叫んだ。
――|持って来い《ダワイ》、ナルザーン(炭酸水)!
――…………|承知しました《ハラショース》…………………
Yはモスクワ第一大学へ教授ペレウェルゼフの口元を見つめにでかける。ペレウェルゼフの頤はごましお髯につつまれているが、文学批評は古くない。ただYにとっていくらかの困難がある。というのは、すべて文学批評の本が、小説とは違ういやに読みにくい活字で印刷されている通り、講壇の上においても、ペレウェルゼフの言葉は、Yの聴覚と調和しがたい。それでもYは、日本からの黒いおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]を、やっぱりごみだらけの講堂にあらわす。そして十九世紀のロシアにおける貴族文学、中流文学、民衆の文学について話されているはずのものを聴くであろう。
私は、その間ホテルの室にいる。貴重な独りの時間を貪慾に利用しようとする。
それから、ロシア語初等会話を、B夫人についてやる。――
モスクワにきて私の深く感じたことが一つある。それは、現代のСССР《エスエスエスエル》が外国人の旅行者に対して、どんな行届いた観光《サイト・シーイング》の案内役を設けているかということだ。モスクワの停車場へ下りる。午後三時迄の時間であったら、彼はタクシーをやとい、まっすぐ、マーラヤ・ニキーツカヤ通りの対外文化連絡協会《ヴオクス》へ行けばよい。もとは金持の商人の邸宅であったその建物の、下の広間の、隅の事務机に向って歩け。そこには髪の黒い、眼の大きい美しい二十七歳の女が坐っている。彼が日本語とイタリヤ語以外の言葉を話せば、翌朝から彼が丁度茶を飲み終ったという時刻に、協会から案内者《ガイド》が派遣されるであろう。彼が二日モスクワにいるならその二日で、一日だと云えばその一日中に、案内《ガイド》によってСССР風の観光《サイト・シーイング》――工場、革命博物館、基本的小学校、農民の家、さらに夜は大劇場の棧敷にならぶ一九二八年モスクワ風俗までを見せて貰うことが出来る。
対外文化協会ですべての人と英語で話す。英語の案内《ガイド》をつけて貰う。そしてたとえば製菓工場|赤き十月《クラースナヤ・オクチャーブリ》へ行く。工場内の託児所の優れた設備を見、図書室、クラブを見せて貰い、読めないスローガンの貼られた壁を眺め、その文句のあるものを説明され、働いている人々に向って外国女らしい愛嬌笑いをして見せたところで、それは何を意味するであろうか?「なるほど、ロシアにはこのような施設がある。さすがだ。」これはむしろ甲の成績だ。
飛石のようにСССР全生活の深い水面から頭を出しているこれらの施設観光だけで、私は満足することができな
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