速かな忘却と、無頓着を意味する。ロシアのイワンにそれは出来ぬ。彼はモスクワから何処かの村へ行かなければならない。停車場へ行った。切符売場への列が二廻りも待合室をうねくっている。予定の時間に立つ列車にもちろん乗りおくれた。次のにも怪しい。夜が更ける。然し、どっちみち明日の朝迄には立てるだろう。そう思って、最初の目的はすてずに彼の麻袋に腰かけて待っているのが、ロシアの、イワンの呑気だ。日本の呑気は、――やあ! こいつはおどろいた。えらい人だよ、止めちゃえ、やめちゃえ。馬鹿馬鹿しいや。それよかどっかへ行って――麻雀をするか、一杯ひっかけるか、それは彼の好み次第である。

 技師《インジェニエール》ルイバコフが建築した協同家屋《コオペラチーブ》は、クロポトキンスキー広場の角に立っている。粗末な木の塀の上にエナメルの円い番地札と四角い札がうちつけてある。四角いのには郵便住所モスクワ三十四、木の塀について居る切戸の柱に掲示があった。――門内ニ便所ナシ――然し、何にもならず夕暮や夜、狭い切戸の隙間から通行人がすべり込んだ。技師ルイバコフは人減らしで三月前国立出版所をやめさせられた妻と子と自分の妹、女
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