人生の波瀾と悲喜が彼の魂《ドゥシャー》を呼びさまし、呼びさまし、終に彼をして書かしめた。ドストイェフスキーを日本に於ける翻訳広告にはいつも人道主義作家と銘うつが、ドストイェフスキー自身はそんな気持なしに書いたのが、ここの周囲の生活を眺めると明かにわかる。ただ彼は、彼の病的な、然し敏感な魂《ドゥシャー》をはだかにして彼の生きたロシアの底なき生活の底へ底へと沈んで行った。ドストイェフスキーの人物は決して観念的なこしらえものではない。彼の作品中から最も異常な一人の存在を見つけて来ても、ロシアにならば[#「ロシアにならば」に傍点]そのような人物は実在し得るのだ。ドストイェフスキーが非難されるとしたら、彼自身の病的さによって、あまり彼の人物の描線に戦慄のあることだ。嘘を描いたことではない。
 私は一人の外国人だ。昔のロシアを知らぬ。ロシア民族史中最も活動的な、テンポ速き現代に於て、群衆の都会モスクワに住んでいる。それでさえも、或る時自分に迫る恐ろしいロシアの深さを感じる。つまり、ロシアで偏見をすてて自分の魂をそこにある人生に向けて見ると、たとえ福音書が唯物史観にかわるとも、生きて行く心持に於てド
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