行った味噌こしざるみたいなものと一緒にまだ彼の笑顔が残っている。もう、樺色外套の背中は見えない。――
 自分は思わず笑った。これはロシア的だ。そして農民的だ。彼がうまくやったのが何だかユーモラスで、私はひとりでに笑えた。歩道に立ち止って見ていた者も笑っている。巡査は、別に追っかけようともせず、傷けられた表情もなくりんご売の逃げた方角を眺めていたが、両手はポケットに入れたまま、やがて四ツ角へ向って歩き去った。味噌こしみたいなものは、どこかの物売女が拾った。

 ロープシンは自殺しなければならなかった。政治的見地からすれば彼自身、不幸な最後を予想しない訳ではなかったろう。然し、彼はロシアなしではもう生きておられなかった。だからかえって来た。そして死んだ。彼のこの激しい郷愁の原因はどこにあったのだろうか。
 またここに、「世界を震駭させた十日間」の筆者ジョン・リードがある。彼は饑饉時代に南露でチフスの為に死んだ。ジョン・リードは機敏なアメリカのジャーナリストとしての手腕の他に、他人ごとでない愛と興味をロシアとロシアの新生活に対して抱いていた。「世界を震駭させた十日間」に、彼はどんな私見もさし
前へ 次へ
全47ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング