ない。
 御者台の上で尻を動かしただけで答えない。日本女はさっさと暗い門の中へ入って行った。
 何処でも、馴れないモスクワの門は夜、気味がわるい。広くて、いろんなものが積んであって、人気なくて。その奥に、まるで明るく小ざっぱりと更紗の布をテーブルにかけて女医者マリアが棲んでるので日本女は、びっくりした。室には昔風なペチカ(暖炉)がたかれ、暖かい。丁度茶を飲んでるところで、テーブルに野苺のジャムが出ていた。
 ――一口お茶のんでいらっしゃいよ。明日の晩はもう飲みたくたって私の家の茶なんぞ飲めませんよ。
 ――でもね、マリア・アンドレヴナ。
 日本女は惜しそうに艷々した苺のジャムを見ながら戸口へ歩いた。
 ――とても時間がないの。またこの次ね。
 ――この次?
 ――十年経ったら!
 ――アイヤイヤイ!
 ――どうして? 二度五ヵ年計画をやれば直ぐ十年じゃないの!
 日本女は馬車のところへ戻った。彼女は坐席に体を投げるようにおろしながら、
 ――さあ、これでおしまい!
 御者の背中へ向って云った。
 ――サドー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤへ行って。
 御者は、手綱をさばき黒
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