馬の背で柔かく鞭のような音をさせた。そして動き出しながらまたあっち向きのまま云った。
 ――三ルーブリ貰いますよ、こんなに待たされたんだから。
 日本女は、モスクワにもう二年と六ヵ月暮してたのである。
 ――どんなに待たされたの? 爺さん。
(本当は爺さんでなく、まだ五十代のがっちりした馬車屋だった。)
 ――私のとこには時計があるのに――
 ――あんた、はじめこんなにより道するって云わなかったじゃないか。
 御者は、農民なまりのない、いかつい声でおしつけるようにいい続けた。
 ――こんなによるんなら、誰にしたって五ルーブリは貰うところだ。
 ――考えてごらん、一本のトゥウェルスカヤを十町走るのに、どんなソヴェトの女市民が二ルーブリだすか。
 ――そんなこたあ関係しない。
 蹄の音の間から、御者は大きな声でおっかぶせた。
 ――あんたは私に払う義務があるんだ。
 ――…………
 ――今日び馬を食わせるにいくらかかると思いなさる?
 内外へ飛び交っていた日本女の思考力は、はっきり御者の上へ集注されはじめた。――おやこいつ、ほんとに三ルーブリせしめる気か?
 ソヴェト・ロシアに「自動車化」
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