机の上にこぼれた。日本女は今でも赤い封蝋がどんなにこなごなになって机に落ちたかたをはっきり思い出すことが出来た。
 今夜はこうやって新聞包を足元にのせて馬車を駆っている。新聞包を或る一つの家へおくことで、又一つモスクワと日本女との間にある結び目がゆるめられるのである。
 日本女は腕時計をのぞいた。それから馬車の上でのび上り、賑やかな人通りをこえて右手に続く高い建物の漆喰軒を見まわした。六十八番てのは何処だろう。彼女自身もまだ来たことないところである。
 ――ああそこ、そこ!
 道ばたにセメント樽、曲った古レール、棒材がころがっている。門の内はどうしたのか真暗だ。ここで恐らくは小さい借室第五号への入口を見つけるのは楽でない。日本女は門の方へばっかり気をとられ馬車を降りたら、御者が、
 ――またかね?
と云った。
 ――そんなに待たされちゃ、増して貰わなけりゃやり切れない。
 日本女を振返らず毒々しい調子だ。彼女は瞬間自分の背中で聴いたことを確めるように立ち止まって御者の顔を見ていたが、静かに、きつく云った。
 ――この包を見なさい。用事で馬車へのってるのだ。おしゃべりに歩き廻ってるのじゃ
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