の!
 ――かまやしない。三ルーブリの札しかないのよ、今私んところにも。
 ――じゃ、ありがとう。貰っとく。
 リーダは階段のところまでついて来て日本語で「サヨナラ」と云った。
 ばねをゆすって再び馬車にのる日本女を例の横目で見て、
 ――手間どったじゃありませんか。
 御者が重い不平そうな喉声で云った。
 ――どうして? 私は五分位しか家の中にいなかった――
 が、日本女の思想は一つとこに止まっていず、彼女はその不平に対して無頓着そうに云った。
 ――まあいい。次はトゥウェルスカヤ六十八番地。
 数日、日本女はほんのわずかずつ眠った。彼女は毎日いろんなモスクワの街を歩き、そこにある様々な都会の秋の風景を心に刻みつけながら、自分とモスクワとのつなぎをゆるめる仕事をしていた。
 一昨日、モスクワ地方行政部へ行った。黄葉した植込みの奥のもっと黄色い柱列を入って行って、旅券の後に添付されてるSSSL[#「L」に「ママ」の注記]居住許可証を返して来た。桃色の大判用紙(その角には日本女の写真をつけたまま)をはがすとき、掛りの男は紙を旅券につけていた赤い封蝋をこわした。封蝋はポロポロ砕け、樺の事務
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