い方で、しかも野蛮な環境の中で暮している幼いゴーリキイの智慧の芽生えを刺戟するようなことを云った。例えば、彼は云う。
「あらゆるものを取ることが出来なくちゃならない――分るかい? それは非常にむずかしいことだ、取ることが出来るということは……」
字もまだ書くことを知らない小僧であるゴーリキイには何も分らなかった。しかし、そういう言葉は心の中に残っていて、何か特別な心持で繰りかえし思い出された。何故なら、この簡単な「結構さん」の言葉の中には彼に忘られない秘密があった。石っころだの、パンのかたまりだの、茶碗、鍋だのをとるだけのことであるならば、何も「結構さん」のむずかしがる特別な意味はある筈はないのだから。
祖父の家の中庭の隅に、誰にも見捨てられた苦蓬《にがよもぎ》の茂った穴がある。小さいゴーリキイは「結構さん」と並んでその穴に腰かけている。ゴーリキイは「結構さん」に訊いた。
「何故あの人達は誰もお前を愛さないの?」
「結構さん」はゴーリキイを自分の温い脇腹に抱きよせ、目くばせしながら答えた。
「他人だからさ――分るかい? つまりそれだからさ。ああいう人達でないからさ」
彼等とは異った一人の者、「他人」として、「結構さん」はゴーリキイの騒々しくて、悪意がぶつかり合っているような幼年時代の生活の中に現れた最初のインテリゲンツィアなのであった。が、ついにこの「結構さん」が祖父の家から追い出される時が来た。それは、或る家畜の群の中に一匹たちの違う動物がまぎれ込んだあげく、やがていびり出されるのに似ていた。はっきり説明もつかないような憎悪が、「結構さん」を追ったのであった。ゴーリキイは深い悲しみの感情をもって「幼年時代」の中に書いている。「自分は故国にいる無限に多い他人――その他人の中でもよりよい人々の中の最初の人間と私との親交は、このようにして終った。」
この物語はゴーリキイにとって記憶から消えぬものであったと共に、今日の読者である私たちの心をも少なからず打つものがある。一八六〇年代の終り、七〇年代の初頭にかけての民衆生活の重い暗さと、そこへ偶然まぎれ込み光の破片となって落ちこんで来たのは「結構さん」のような知識人のタイプ、「おお、他人の良心で生きるものではない」と嘆く一種の敗残者であったということ。しかも、同じ貧窮と汚穢の中に朝から晩までころがされながら、尚民衆は「結構さん」の中に「旦那」「他人」を嗅ぎわけて、本能的に仲間はずれに扱ったということ。それらが、幼いゴーリキイの知性の目覚まされてゆく生活の過程として、私共の心を打つのである。
更にこの「結構さん」とのことで、はからずゴーリキイの全生涯の方向を暗示するまことに面白いエピソードが「幼年時代」に語られている。
或る日、「結構さん」の部屋で、「結構さん」は煙の立つ液体をいじって部屋中えがらっぽい匂いで一杯にしている。ゴーリキイはボロのしまってある箱の上に腰かけている。そして、二人は話している。
「お祖父さんは、お前はもしかしたら贋金を拵えてるんだって云ってるよ」
「お祖父さんが?……うむ、そう。――それはあの人がいい加減をいっているんだ! 金銭なんぞというものは、兄弟――下らんものさ」
「じゃ何でパンの代払う?」
「うむ、そうだね――パンの代は払わなくちゃならない。まったくだ……」
「そうだろう? 牛肉代だっておんなじさ」
「牛肉代だってか……」
彼は静かに、驚嘆するほど可愛く笑い、まるで猫にするように私の耳を擽って云う。
「どうしても僕はお前と口論は出来ない――お前は私を参らせるよ、兄弟。それよりも、さあ、黙ってよう……」
読んでここへ来ると、私たちは思わず身じろぎをして快い笑いに誘われながら、ああ、ゴーリキイ! と思わずにはいられない。この短い、小さい逞しい人生についての問答は、私たちに後年チェホフが云った一つの言葉を思い起させる。二十四歳で、ロマンティックな作家として世に出たゴーリキイに向って、チェホフが「知っていますか? 君はロマンティストじゃない、リアリストですよ。知っていますか?」と云った。そのことを思い起させる。更にそれから後、「哲学の害」を書いたゴーリキイ自身を、そして、その晩年に於て、新しい人類的見地に立つリアリズムの理解によって六十八年の全蘊蓄の価値を傾けて民衆の歓びとなったマクシム・ゴーリキイの終曲《フィナレ》の美しさに思い到らせるのである。
「結構さん」と、泣くことのきらいな小さいゴーリキイとの間に交わされたこの問答の中からは、ゴーリキイを通して民衆的なものの見かたの本質と、旧時代のインテリゲンツィアの特性の一面とが、鋭い対立を示して現れている。この注目すべき性質の対立は、ゴーリキイが十五歳になり、カザン市へ出かけて当時の急進的学生たちとの交
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