マクシム・ゴーリキイの発展の特質
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)嗤《わら》って

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一時|搦《から》め込んだ

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)アイ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ンホー
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 一九三六年六月十八日。マクシム・ゴーリキイの豊富にして多彩な一生が終った。ちょうどソヴェト同盟の新しい憲法草案が公表されて一週間ほど後のことであった。ゴーリキイはこの新憲法草案の公表によって引き起されたソヴェト同盟内のよろこびと、世界のそれに対する意味深い反応とを見て生涯を終った。それより前に、ゴーリキイが重病であるという記事を新聞で読み、毎朝新聞を開くごとにその後の報知が心にかかっていた。新しい憲法草案公表のことが、報道された時、私はその事から動かされた自分の感情のうちに、ゴーリキイが自分の生涯の終りに於てこの輝かしい日に遭遇したということを思い合せ、ゴーリキイは出来るだけ生かしておきたい、しかし、もし死んだとしても、彼は歴史の一つの祝祭の中に葬られる、これは美しいよろこびにみちた生涯の結びでなくて何であろうか。そう思い、そしてゴーリキイのなじみ深い、重い髭のある顔と、広い肩つきとを思い浮べるのであった。
 一九三二年以後のゴーリキイ、芸術に於ける社会主義リアリズムの問題がとり上げられるようになって後のゴーリキイは、世界の文化にとって独特の影響を与えていた。五ヵ年計画の達成と、それによって引き起されたソヴェト同盟の社会的現実の変化は、さながら一つの強大な動力となって、マクシム・ゴーリキイが六十有余年の間に豊かに蓄えた人間的経験、作家としての鍛錬、歴史の発展に対する洞察力と確信などのすべてを溶かし合わせ、すべての価値を発揮させ、世界の進歩的な文化を守るために活動させたと観察される。「どん底」を書いたのは四十年近く前であり、その頃から各国語に翻訳されて読まれるという意味ではゴーリキイは若い時から世界的な作家であった。しかし、最近数年のゴーリキイが世界的であったという意味は、それよりもっと深まったものであったと思う。多くの人の興味を引くという意味で世界的であった彼は、晩年に於て人類の文化の正当な発展のために、今日の地球になければならない楔の一つとして、われわれ文化の進歩を確信するものすべてによって愛し、尊敬される存在となっていたのである。
 私がゴーリキイに会ったのは一九二八年であった。彼が五年ぶりに、イタリーからソヴェト同盟へ帰って来た時のことで、当時ゴーリキイは、ソヴェト同盟に自分が永住するかどうかということについても、はっきり心を決めていなかったようであったし、彼としては予想したよりはるかに盛大な、心からの歓迎に感動しつつ、今日から考えると、日の出前の空が、とりどりな暁の色で彩られているような、ある複雑な不決定と、期待、歓喜が彼の感情を満していたように察せられる。
 静かな朝の十月大通りを見下す方角に大きな窓が開いている。赤っぽい、そう新しくない絨毯が敷いてある。その部屋の隣室へ通じるドアの近くにゴーリキイが腰かけている。シャツも上衣も薄い柔かい鼠色で、それは深い横皺のある彼の額や、灰色がかって、勁さと同時に感受性の鋭さを示している瞳の表情、特徴のある髭などとよく調和して感じられた。彼は、低い平凡なホテルの肘掛椅子にかけて、大きいさっぱりと温い手を自然に組み合わせている。斜向いのところに丸テーブルがあって、その上には、もうさめ切った一片のトーストが皿に入ってのっている。私が細い赤縞の服を着てそのテーブルに向い、わきに立って私の上にかがみかかっている友達に、時々綴りを訊きながら、本の扉にロシア語を下手な字で書きつけている。私はゴーリキイに、自分の小説を一冊贈るために持って行った。その扉に「予想されなかった遭遇の記念のために。マクシム・ゴーリキイへ」と、日本字で書いてそれをゴーリキイに見せたらば、彼は、日本字が読めなくて残念だと云い、その意味をロシア語でわきへ書いておいてくれと云った。私はそれを書いているのであった。書きあげて、子供より下手だと笑いながら見せた。するとゴーリキイは真面目な、親密な調子で、「なに、結構読める」と、別に笑いもせず答えた。その云い方と声とが今も心に残っている。
 あのゴーリキイがもういず、彼の残した沢山の蔵書に交って何処かに、私のあの本もあるのかと思うと、何か一口に云い現せない心持が私をみたす。何故なら私の記憶の前には、中川一政氏によって装幀された厚い一冊の本と、ゴーリキイの如何にも彼らしい「なに、結構読める」と云った
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