渉が始まるにつれ、一層その社会性、歴史性に於て複雑な内容をもって深められ、発展するに至ったのである。
 十五歳でもゴーリキイは既に自分を年よりだと感じる程重く生活からの雑多な印象に満たされていた。
 学校で受けた教育と呼ぶことの出来るのはマクシム・ゴーリキイの全生涯を通じて小学校の五ヵ月のみである。祖父は急速度に零落し、七歳の彼も「銭」を稼がなければならなくなった。彼は屑拾いをした。オカ河岸の材木置場から板切や薪をかっぱらった。「盗みということは場末町では決して罪悪とされていなかった。それは習慣であり、又半ば飢えている町人にとっての殆ど唯一の生活方法なのであった。」
 靴屋の見習小僧。製図師の台所小僧兼見習。辛棒のならないそれ等の場所の息苦しさから逃げ出して、少年ゴーリキイはヴォルガ河通いの汽船の皿洗い小僧となった。到るところで彼は「ぼんやりする程激しく労働した。」そして、彼の敏感な感受性と自分の生活、人々の生活を熟考せずにはおけない気質とは、人々の中にあって益々多くの疑問にぶつかった。
 例えば、汽船の皿洗い小僧として、十三歳のゴーリキイは朝から晩まで皿を洗う。鉢を洗う。ナイフを磨き、フォークと匙を光らせていなければならない。だが、一方には、そうやって洗った皿を一つ一つまたよごし、鉢を使い、ナイフや匙をきたなくしてゆく人々がいる。それらの人々は全く平気に、全く当然なこととしてやっているのだが、何故これは当然なのだろう? 朝は六時から夜半まで働いているゴーリキイの少年の心には疑問が湧いて来る。何故、一方に何でもしなければならない人々があり、もう一方にはそれらの人々に何でもさせた結果を利用することの出来る人々が存在するのであろう。彼の周囲の生活の中には、泥酔や喧嘩や醜行やが終りのない堂々めぐりで日夜くりかえされているのだが、それらすべては何のために在るのだろう。
 当時、ゴーリキイは、汽船の料理番スムールイに読むことをおそわった。初めはマカロニ箱にこしかけて、『ホーマー教訓集』『毒虫、南京虫とその駆除法、附・之が携帯者の扱い方』などという本を音読させられた。が、だんだん『アイ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ンホー』を読み、『捨児トム・ジョーンズの物語』を読み、「知らず知らずの間に読みなれて」彼にとっては「本を手にするのが楽しみになった。本に物語られていることは、気持よい程生活とかけ離れていた。そして、生活の方は益々辛くなって行った。」スムールイは、どこか普通の子とちがうゴーリキイを愛し、時々無駄に過ぎてゆく自分の一生に腹を立てたように怒鳴った。
「そうだ、お前にゃ智慧があるんだ、こんなところは出て暮せ!」
 然し――何処へ?
 愈々深く大きくなる「何故」という疑問、社会の矛盾に対する苦悩が、ついにマクシム・ゴーリキイを古いニージュニの場末町から押し出した。ゴーリキイは、カザンへ出た。彼はカザンで大学へ入ろうと決心したのであった。ニージュニで知り合った彼より四つ年上の中学生が美しい長髪をふりながら彼のその計画を励ました。
「君は生れつき科学に奉仕するために作られているんだ。――大学はまさに君のような若者を必要としているのだ。」
 ところが、カザンに到着して三日経つと、ゴーリキイは、自分が大学なんぞへ来るよりはペルシャへでも行った方が、もう少しは気が利いていただろうということを知った。彼独特な「私の大学」時代がはじまった。ゴーリキイは、その時代のことをこう書いている。「飢えないために、私はヴォルガへ、波止場へと出かけて行った。そこで一五、二〇カペイキ稼ぐことは容易であった。」と。
 これらの波止場人足や浮浪人、泥棒、けいず買い等の仲間の生活は、これまで若いゴーリキイがこき使われて来た小商人、下級勤人などのこせついた町人根性の日暮しとまるでちがった刻み目の深さ、荒々しさの気分をもってゴーリキイを魅した。彼等が、極端な無一物でありながら、貧と悲しみの境遇の中で自分たちの何にも拘束されない生きかたを愛していること、この人生に対して露骨な辛辣さを抱いていること、それらがゴーリキイの好奇心と同情をひき起したのであった。ゴーリキイは、この群のうちにあって「日毎に多くの鋭い、焼くような印象に満たされ」「彼等の辛辣な環境に沈潜して見ようという希望を呼び醒され」た。けれども、屑拾い小僧であり、板片のかっぱらいであった小さいゴーリキイを、かっぱらいの徒党のうちへつなぎきりにしなかった彼の天質の健全な力が、この場合にも一つの新しい疑問の形をとってその働きを現わした。これらの連中は、いつ、何を話してもとどのつまりは「何々であった[#「あった」に傍点]」「こうだった[#「だった」に傍点]」「ああだった[#「だった」に傍点]」と万事を過去の言葉でだけ
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