は、歴史に著名なポベドノスツェフの辣腕によって窒息させられ、チェホフが友人への手紙に「ロシアは専制によって滅亡に近づいている」と書いた時代であった。多くの有能な生命が監獄とシベリヤとで滅ぼされている。しかし坐って論じている人々は、歴史の必要性というものを自身の偸安の便利な云いわけにつかった。この時代、ゴーリキイはコロレンコに近づき、コロレンコに於て、信頼するに足るインテリゲンツィアのタイプを見出したのではあったが、当時の不健全な傾向として現れていた理論の遊びは、ゴーリキイをついに放浪の生活に誘惑した。処女作「マカール・チュードラ」は実にこの放浪の旅の終りに彼が落付いたチフリスで(一八九二年)書かれたものなのである。
 チェホフが、彼の敏感と人間らしい良心によって、当時一部のロシア・インテリゲンツィアに対して抱いていた忌憚ない反撥と、ゴーリキイが勤労者としての本性によってインテリゲンツィアの中に、有用なものと不用なもの――むしろ有害なものとを嗅ぎわけようとしていたことは、それぞれの価値で非常に教えるところがあると思う。チェホフが、当時の一部のインテリゲンツィアに対して抱いた憎悪の最大な原因は、彼等の頭脳の怠惰さであった。「彼らは、いつも不平をこぼし、躍気になって何も彼にもを否定します。怠惰な頭脳には、主張することよりも否定する方が容易だからです。」そして、更に、如何にも彼自身がインテリゲンツィアであること、インテリゲンツィアが彼自身の怠け者の同族に向って感じる厭悪と憤懣とを制せられぬ口調で云っている。「あの手合いのようなお喋りを読む時、露骨に嫌悪を感じます。熱のある患者は食物を摂りたがらず、何か酸っぱいものという漠然とした要求をします。私も亦何か酸っぱいものが欲しい、そしてこれは単なる偶然ではありません」と。
 この要求がチェホフに「桜の園」を書かせたのであったろう。然し、チェホフは自身の誠実な生活の全体で、当時の優秀な知識人が渇望していた「酸っぱいものへの要求」を、漠然としたものなりに歴史の進歩に向って声明し得たに止った。
 若いゴーリキイが深い苦悩と歓喜とをもって経験したインテリゲンツィアとの相互関係の歴史は、チェホフの場合と本質的に異る。いわば新世界の創造の暁に、民衆が半ば目醒め、半ば暗さに置かれながら切実な要求に衝き動かされて熱心に餌じきを求め、直感的にその腐った部分とそうでない部分とをよりわけたのと似ている。「あの人の心の中には、何か調子はずれなものがあってよ。……人間の中にそういうものの在るのに気がつくと、私はその人が肉体的に不具なような気がして来るの。」これは、ゴーリキイがインテリゲンツィアを書いた戯曲「別荘の人々」の中でカレエリヤという女が云う言葉である。ゴーリキイ自身がこのように感覚的に、而も彼の持前である鋭い、生活的な観察、熟考に裏づけられつつ、既成の文化から、発展的なものを吸収して行ったと思われるのである。
 一八九八年、社会民主労働党が結成された年、既に「光栄の峰」へ向いはじめていたゴーリキイは政治的活動をしたという理由で逮捕された。「小市民」の上演が禁ぜられ、「どん底」でゴーリキイの名は世界的になっていた。そのおかげで、一九〇五年のかの日曜日の後、ペテロパヴロフスクの要塞監獄に投獄された彼が命を全うしてイタリーへ政治的移民として住むことが出来たのであった。
 ほぼ二十五年に亙るレーニンとの友情が結ばれたのは一九〇七年のことであった。「母」を書いて後、「敵」がもう数年前書かれているのに、マクシム・ゴーリキイが一九〇八年から三四年の間にはいろいろ動揺して、召還主義の連中とカプリの労働学校を創立したり、創神派の弁護者としてレーニンに彼らとの妥協を求めたりしたことは、我々の注目をひきつける。この時代ゴーリキイは、ロシアを離れていたことからも一九〇五年後の民衆の成長のテムポと方向とを十分掴めなかったと同時に、今日の目で観察すれば、彼は或る意味で「私はそれを知っている」と確信をもって云い得るものが陥り易い一つの誤りに陥っていたことが理解される。ゴーリキイが、ロシアの民衆を最もよく知っているのは自分であると思っていたことは自然なことであろう。彼は一九〇五年の失敗を、大衆が十分組織をもっていなかったからであると知らず、外部からの力の不足を認識するにつれ、民衆は民衆の中の独自な力、神によって解放され得ると希望を求めたのであった。ゴーリキイの素朴な的をはずれたこの心痛を、創神派の連中は利用した。彼等のインテリゲンツィア的理論づけ、組立ての外観が、当時に於て一過渡期にいたマクシム・ゴーリキイを一時|搦《から》め込んだのである。四十歳になり、世界の作家ゴーリキイになっていた彼は、この時、二十代の生一本さを失っていたとともに、知
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