、錘だ!」
ゴーリキイは、自分がいかに彼等の意企の正しさを理解し、その点で自分を解くことが出来ぬ力で彼等と結びついたものと感じていようとも、やはり自分に対しては彼等が「かなり厳格な態度」をとっていることをも感じずにはいられない。夕方の六時から真夜中まで働き、昼は寝、捏粉の発酵するのを待つ間とパンが炉の中で焼けるのを待つ間しかゴーリキイは本が読めなかった。書けなかった。彼はその間でしばしば考えた。「一体、俺はこれからどうなるのだろう。」
この重い時期に、彼にとって生活の明るさと愛の源泉であった祖母が死んだ。だが、その悲しみを語り、優しい思い出を話す対手は一人も彼の周囲にはいない。巡査が鳶のようにゴーリキイのまわりをめぐり始めた。
学生の集りへ出かけても、本読みは退屈なほど長くつづき、生来論争の好きでないゴーリキイには「興奮した思想の気まぐれな飛躍を追うことが困難であり」、いつも論争者の自愛心が彼をいら立たせるのであった。
今日の歴史によって顧れば、ゴーリキイにとって苦しかったこの一八八〇年代の後半は、ちょうどロシアの解放運動が一転期に際した時代であった。以前の「人民の意志」団が分裂して、新たな「労働解放団」などが生れた時代であり、プレハーノフの書いた「我等の対立」などが、ゴーリキイの出る学生の集りでも読まれ、討論された。しかし、歴史的な意味でも若かったこれ等の学生達は、「加工を必要とする素材」として自分達が眺めていたゴーリキイに対して、時代の意義の重要性をのみ込ませるだけのゆとりがなかった。当面彼等が興味を持っていることでないことをゴーリキイが話しはじめると、彼等は忠告した。
「そんなものはやめてしまえ」
だが、ゴーリキイにとって話したい、打ちあけたい生活の苦痛そのものはやまら[#「やまら」に傍点]ない。減りもしない。当時夥しく現れたトルストイアン達の嘘偽の多い生活態度は、慈悲とか愛とかいう問題についても、突きつめた、勤労者らしい鋭い疑問をゴーリキイの心に捲き起した。彼は思うのであった。「もしも、生活が地上の幸福のために絶間ない闘争であるならば徒らな慈悲と愛とはただ闘争の成功を妨げるだけではないか」と。いわゆる温和な人々が余りにも多すぎた。卑俗なものへ適応する彼等の巧妙さ。精神のたわいない移り気、柔軟性、「蚊のような彼等の痛みを観察しつつ」二十一歳になったマクシム・ゴーリキイは自分を「馬蠅の雲の中へ脚をとられた一匹の馬のように」感じるのであった。
折からカザン大学に学生の騒動が始った。パン焼の窖につめこまれているゴーリキイにはその意義がはっきり分らなかったし、原因も漠然としていた。パン焼職人の仲間たちは、大学へ学生を殴りに押しかけようとしている。
「おお、分銅でやっつけるんだ!」
彼らは嬉しそうな悪意で云う。たまらなくなって、ゴーリキイは彼等と論判をはじめた。が、結局自分に学生を護り得るどんな力があるというのであろうか。
ゴーリキイの全心を哀傷がかんだ。夜、カバン河の岸に坐り、暗い水の中へ石を投げながら、三つの言葉で、それを無限に繰返しながら彼は思い沈んだ。
「俺は、どうしたら、いいんだ?」
哀傷からゴーリキイはヴァイオリンを弾く稽古を思い立った。劇場のオーケストラの下っ端ヴァイオリンを弾いているその先生は、パン店の帳場から金を盗み出してポケットへ入れようとしているところを、ゴーリキイに発見された。彼は唇をふるわし、色のない目から油のように大きい涙をこぼしながら、ゴーリキイに訴えた。
「さあ、俺を打ってくれ」
この堪え難かった年の十二月の或る晩、ゴーリキイは雪の積ったヴォルガ河の崖によりかかりピストルを自分の胸にあてて、発射した。弾丸が肋骨に当ってそれた。彼は生きた。
翌年の春、この出来事によってかえって生活に対する溌剌さをとり戻したゴーリキイは、学生仲間で知り合ったロマーシという、シベリア流刑から帰ったナロードニキと、ヴォルガ下流の或る村へ行った。ロマーシはそこで「人間に理性を注ぎ込む仕事」をし、ゴーリキイはそれを助けたのであったが、この村の生活で、二人は富農のために店をやかれ、危く殺されそうになった。農民、特に富農が「理性的に生活しようとする人をいかに執拗に憎悪する」かということ、及び、解放運動に参加する一勢力として持っている農村の複雑性、非社会性を、極めて現実的に(トルストイが「イワンの馬鹿」に神を認めたのとは違った風に)ゴーリキイが把握するに至ったのはこの期間の緊張した経験が役立っているのである。
一八九〇年代に入っては、ニージュニの情勢も移った。急進的なインテリゲンツィアのグループは、今やマルクスの著作を読んでいた。「唯物論者」となった人々の間には、相も変らず盛んに討論が行われている。ロシア全土
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