て経験したことのない妙なばつわるさ、居心地わるい瞬間が、ゴーリキイの生活に混りこんで来た。これらの学生達は目の前へ彼を置いて、「まるで指物師が並々ならぬものを作ることの出来る木の一片でも見るよう」な眼付でゴーリキイを眺めた。「子供が道傍でひろった大きい銅貨でも見せ合うように、誇りをもって」彼を皆に紹介し合った。これは、ゴーリキイの気質にとって工合わるかった。更に彼等は、ゴーリキイを「生えぬきだ!」「まったくの民衆の子だ!」と褒める。これもゴーリキイの気を重く考えぶかくさせた。学生達は民衆を叡知と、精神美と善良との化身のように話すのであったが、ゴーリキイが物心つくとからその日までその中に揉まれ、それと闘って来た現実生活の下で、彼は「このような民衆を知らなかった」のである。
一八八〇年代のロシアにおける急進的な学生達の姿は、ゴーリキイの思い出をとおして、髣髴と我らの前に立つ思いに打たれるのであるが、彼等はゴーリキイを生えぬきの民衆の子として珍重しつつ、ゴーリキイを、彼等流の教育[#「教育」に傍点]で鍛えようとした。教師[#「教師」に傍点]たちは、ゴーリキイに自由な本の選択を許さなかった。読んだものについてのゴーリキイらしい批評を評価しなかった。彼らは云うのであった。
「君はこっちからやる本を読めばいいんだ。君に適しない領域には――首を突込むなよ」
こういう粗暴さはゴーリキイを焦立てた。
ゴーリキイが波止場稼ぎをやめ、パン焼工場で働かねばならなくなると、状態は一層彼にとって複雑なものとなった。パン焼工場の地下室は、一日、十四時間の労働を強いた。とても学生達と会うことが出来なくなった。彼等は、既にゴーリキイの旺盛な青年の生活にとって必要なもの、会ったり、聴いたりせずにはいられないものとなっているのに、パン焼工場の地下室へ下りて行かなければならなくなった時、その人々と彼との間には「忘却の壁が生い立った。」学生等は、生活のためにパン焼工場へ入った二十歳のゴーリキイが、彼等に会わなかった前のゴーリキイではなくなっているという重大な事実及び暗愚と無恥との中に入って精神的に孤独な境遇に暮すことがゴーリキイにとって、従前とは異った苦痛となっていることなどを、不幸にしてちっとも洞察し得なかったように見えるのである。
彼の生涯の中でも意味深い苦悩の時代がはじまった。ロシアの民衆の中に蔵されている健康な人間性、大きい才能の強力な発芽として歴史の上に登場した若いゴーリキイが、計らずも当時の情勢に制約され、苦しんだ内的過程の有様は、今日の私達をもさまざまの示唆によってうつものがある。もし、無智と屈従とを意味する名称として解釈するその時代の習俗に従えば、ゴーリキイは既に盲目な民衆《ナロード》の一員ではなくなっている。さりとて、当時の急進的インテリゲンツィアたちが自身を指導者として外部から民衆に接触して行った考え方に従えば、ゴーリキイはそういう内容でのインテリゲンツィアとしてうけ入れることも出来ない。そんなに近いところで、デレンコフのパン焼工場の窖で日頃彼等の夢想している民衆の本質的な一典型が発育しつつあるという驚くべき現実の豊富さを、その時は学生達も知ることが出来なかった。もとよりゴーリキイ自身は知りようがない。ゴーリキイにとって切ない精神上の板ばさみが続いた。
ゴーリキイの地下室仲間は、一般に、当時のインテリゲンツィアのもっている進歩性の値うちを、素直にうけ入れられない程生活に圧しひしがれていた。例えば、パン職人たちの唯一の歓びは、給金日に淫売窟へ出かけることであった。すると、そこの「喜びのための娘たち」は酔っぱらいながら彼等に、学生や官吏や「一般に小綺麗な連中」に対する悪意のある哀訴をした。それをきくと、「教育のある人達[#「教育のある人達」に傍点]に対する片輪の伝説」で毒されているゴーリキイのパン焼仲間は不可解なものへの嘲笑と敵対心を刺戟され毒々しい喜びで目を閃かせながら叫ぶのであった。
「ウー。教育のある連中は俺達よりわるいんだ!」
こういう仲間に、ゴーリキイは祖母ゆずりの、聴きての心を誘い込むような魅力のこもった話しかたで、よりよい人生への可能の希望を目醒まそうとするのであった。
この時代から、ゴーリキイの心が溢れて詩になりはじめた。それが重々しくて、荒削りなのはゴーリキイ自身にも感じられた。けれども、自分の言葉で語ることによってのみ「自分の思想の最も深い混乱を表現出来るように思われ」しかも、ゴーリキイは、その詩を、彼を「いらだたせる何ものかに抗議する意味で殊更粗暴なものにした。」この生々しく切迫した若者の心持を、彼の教師[#「教師」に傍点]である数学の学生は、さて、どう理解したであろうか。学生はこう云って非難した。
「言葉じゃないよ
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