誰かが屋敷内で馬の手綱をひいて駈けて行く。老婆が、本会堂へ泥棒が入ったんだよ、と怒鳴る。主人がそれを制し、
『おっ母さん怒鳴るなよ。あれは警鐘《はやがね》じゃないよ!』
 主人の弟ヴィクトルが寝棚から降りて来て、着物を着ながら呟いている。
『俺には何が起ったのか解っている。ちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と分っている!』
 主人は、火の手が見えるか屋根へ登って見ろと云いつけた。」
 ゴーリキイは屋根へ出て見たが火の手は見えぬ。静かな冷たい夜気の中で、ゆるやかに鐘が鳴っている。暗くて姿の見えない人々が雪を軋ませながら走った。橇の滑り木が鳴る。鐘は気味悪く鳴りつづけている。この夜の地方の町らしい描写を、ゴーリキイは実感をもって記憶に呼びおこしている。主人が戸外へ出ようとすると、主婦がこわがって、
「貴方行かないで! ね、行かないで……」
とすがりつく。男連はそれを振り払って往来へとび出した。ゴーリキイがサモワールの仕度を云いつけられて台処で働いているところへ主人が玄関へ飛び込んで来て「太い声で云った。
『皇帝が殺されたんだ!』
 ヴィクトルは帰って来ると、詰らなそうに外套をぬぎながら怒って
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