「汚いカルムイッツの漁場、カバンクール・バイの漁師の小さい組合に入ることが出来た」のであった。

 クラスノヴィードヴォの農村生活に於けるこれらの強烈な経験の描写は、「私の大学」の中で芸術的に優れた部分をなしているばかりでなく、私共の特別な興味を唆る点は、このゴーリキイによって描かれた農村生活の数十頁が、歴史的にはツルゲーネフの「処女地」とショーロホフの「開かれた処女地」との間をつなぐ社会的事情を反映していることである。「処女地」は知られているとおりナロードニキの活動の高揚期を捕え、インテリゲンツィアの側から、若き先進者たちの内的矛盾を描きつつ農村を観察して行った作品である。農民はここでは一様に、灰色なものとして現れている。無知、狡智の錯綜が、一般性においてとりあげられている。
 ゴーリキイがそこに生きて、そして殺されかかって観た一八八〇年末のロシアの農村には、既に階級があらわれ、農民の気分も、その人々が村で置かれている位置に従って変化をもっていることが、描写の中に十分反映している。先進者の努力は、農村のどういう人々の群の利害と対立し、どういう人々の幸福と結合し得るものであるかというこ
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