或る晩、ゴーリキイは雪の積ったヴォルガ河の崖によりかかりピストルを自分の胸にあてて、発射した。弾丸が肋骨に当ってそれた。彼は生きた。
 我々読者に今日無限の示唆を与えるのは、ゴーリキイほどの強靭な天質と生活力とを持つ者でさえも、歴史の或る時期には自殺をしようとしたという一事実を踰えて、更に、人及び芸術家としてのゴーリキイが、自分のこの記念的経験をちゃんと短いながら一つの作品「マカールの生涯の一事件」になし得たのは、二十五年の後、『プラウダ』に参加するようになった一九一二年のことであるという事実である。「マカールの生涯の一事件」の結末に於て、ゴーリキイは「病んだ心臓の奥底から」「春の最初の花のような」人生への希望が甦って来たこと、決して「どっちにしろ同じ[#「どっちにしろ同じ」に傍点]」じゃない[#「じゃない」に傍点]ということを、全身に感じたこと、最後に、パン焼職人の荒々しい手を確り握って笑いながら、涕泣しながら、このマカールと仮の名をつけられた逞しい、だが小路へ迷い込んだ民衆の一人が「長い剛情な人生の上に本復したことを感じた」美しい瞬間を、脈うつ歓喜の調子で描いているのである。
 小
前へ 次へ
全125ページ中108ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング