た頃である。ゴーリキイは「小市民」、「どん底」と続けて戯曲を書いた。ゴーリキイといえば「どん底」と応ずるくらい世界に知られた傑作であるが、この戯曲の成功によって得た金で彼は「ズナーニエ」というペテルブルグの出版書肆を買いとった。恥を知らぬツァーの政府の言論と出版の自由の抑圧に抵抗する進歩的な書肆が必要であったためである。
 一九〇四年のメーデーは、日露戦争開始によって特別の意味をもつものであるが、その時のビラを書いたのは外ならぬゴーリキイであった。翌一九〇五年一月九日の日曜日、歴史の上で有名になった「血の日曜日」に、聖旗をかざした女子供を先頭とする約十万の民衆が、日露戦争の終結、政治的自由の保証、パンと職とをツァーに求めて冬宮広場に進んだ時、ガポン僧正の裏切りによって、聖像を先に立てて「父なるツァー」に請願のため行列して行った民衆は、冬宮を背にして並んだ兵士の発砲によって千数百の労働者がたおれた。その前、ゴーリキイはこの労働者に対する射撃を防ごうとして他の同志とともにウイッテと会い、熱心に談判したがきき入れられなかった。ツァーの砲火の下に罪なく無智な労働者、女、子供の血が雪を染める間、
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