合う残酷などであるのに、彼が読む本は何と人間の智慧の明るさ、生活の美などについて語っていることであろう。当時のロシアをみたしていた生活の浪費の苦痛がゴーリキイの心を狩り立て、十五の年、彼は故郷ニージュニを出て、遂にカザン市へ出て来た。何とかしたら大学に入れそうに思ったのであった。
 ところが、カザンで若いゴーリキイを迎えたのは、一八六一年に歴史的ストライキをやり、数年後にはレーニンがそこで学ぶめぐり合わせになっていたカザン大学ではなくて、飢えであった。カザン大学正課にはないゴーリキイの「私の大学」時代がはじまったのである。
 ゴーリキイは、淫売婦や貧しい大学生、人生での敗残者などがごたごた棲んでいるカザンの貧民窟の一隅に、急進的な一人の学生と暮した。そこにはたった一つの寝台があるだけであった。学生とゴーリキイとは夜昼交代にそこへ寝て、ゴーリキイはヴォルガ河の波止場の人足をやって十五カペイキ、二十カペイキと稼ぐ。――ロシア人はヴォルガ河を「母なるヴォルガ」と呼んで愛するが、ゴーリキイの半生のさまざまな場面は洋々としたヴォルガの広い流れと共に動いている。冬になって河が氷結すると、ゴーリキイは波止場仕事を失って、或るパン焼工場へ入った。
 そこは月三ルーブリで十四時間の労働である。体も辛かった。更に精神的には、ゴーリキイにとって最も苦しい時代の一つであった。何故ならこの時代、ゴーリキイは近づき始めた新しい世界から再び切りはなされてしまったのである。
 カザンに来てからゴーリキイは数人の急進的インテリゲンツィアと知り合いになって、時々その研究会などへも出るようになっていた。長時間ぶっつづけの討論は時に彼を苦しめ、またこれらの「人民主義《ナロードニキ》」の学生達が、むっつり黙って、だが全身の注意を集めて参加しているゴーリキイの目の前で「生えぬきだ!」とか「民衆の子だ!」とか感嘆し合うのが少なからず彼にばつの悪い思いをさせるのであったが、ゴーリキイは、彼らに対して深い興味と渇望とをもって接した。少くとも、生活をいい方へ向けようと努力している一団の人々をゴーリキイは見たのである。
 この「人民主義」の学生達が「民衆」というものについて示す考えは、深くゴーリキイを驚ろかせ、且つ考えさせた。彼らは民衆を叡智と、精神美と善良の化身のように云うが、ゴーリキイが五つの年から観察し、まもれ、闘って来ている現実の生活で、彼は「このような民衆を知らなかった。」
 パン焼場での労働は学生達の集会へ出ることを不可能にした。当時の急進的学生は、憎むべき徒食階級に対置して「民衆」を観念的に理想化するにとどまり、誰一人実際にパン焼工場の地下室へゴーリキイを訪ねて彼を鼓舞しなければならぬという必要には思いいたらなかったのであった。
 ゴーリキイ自身の精神的飢餓と当時のロシア労働者の一部がインテリゲンツィアに対して抱いている辛辣な敵意が彼を苦しめた。その頃ゴーリキイはもちろん、労働者とインテリゲンツィアの対立を政治的に利用するために、どんな金を政府が撒いているかなどということは洞察しなかった。ゴーリキイは、その中でパン焼職工の連中に折を見てはもっと楽な、もっと意義ある生活の可能について啓蒙的な話をするのであった。このパン焼工場での生活の断面は「二十六人と一人」という名篇につよい筆致をもって描かれている。
 二十歳の時、ゴーリキイは自殺をしかけた。一八八七年の十二月のことである。ゴーリキイは市場で四つ弾丸のつまったピストルを買い、凍ったヴォルガ河の雪深い夜の崖にのぼって胸を撃った。弾丸ははずれた。彼はこの事件がすむと同時に、この経験を深く批判して、恥しく感じた。
 新しくよみがえった生活に対する真率な積極性によってゴーリキイは春になるとロマーシという「人民主義」の革命家と一緒に或る農村に入り、農民の自覚を促すための運動を始めた。その土地の富農たちの恐ろしい悪計によって、革命的であった農民イゾートはヴォルガ河のボートの中で頭をわられて殺され、ゴーリキイたちの店は放火され、そのどさくさにゴーリキイやロマーシももうすこしのところで殺されかけた。流刑地でのいろいろの危急の場合にきたえられていたロマーシの勇敢で適宜な防衛で命が助かった。
 村を出てからゴーリキイは裏海の漁業組合で働き、やがてドウブリンク駅の番人として働き、駅夫や人夫に地理や天文の本をよんで聞かせてやりながら、半分歩いてニージュニイにたどり着いた。その時分ロシアの辺鄙な田舎の果でもツァーの官吏や司祭らが、どんな腐敗した醜聞的日常生活を営んでいたかは、その時の経験を書いた「番人」その他にはっきり現れている。
 ニージュニイで再び急進的インテリゲンツィアの群に加わった。情勢は移って「資本論」などが読まれだしていた。然し、
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