マクシム・ゴーリキイの人及び芸術
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)吝《しわ》くなった

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(例)[#「*」の注記]」
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 現代は、一つの深刻で巨大な時期である。旧いものの世界的な崩壊、新たな社会の建設。二つの力が切迫して相うち、どんな平凡な一市民の生活さえ、それを観察すれば複雑な社会的矛盾からまぬかれ得てはいないのである。動揺はいたるところに起っている。
 この時代に、世界は文学の分野において誇るに足る二人の勇士をもっている。ロマン・ローラン、マクシム・ゴーリキイの二人である。
 これらの人々は、いずれも自分の遭遇した時代の種々さまざまな矛盾をもっとも偽りない心で悩みつつ頑強に人類の幸福とより合理的な社会を求める熱誠を棄てなかった人々である。そして、永年にわたる困難な闘いを通じて、遂にその解決を見出した人々である。彼らは勤労人民こそ新しい歴史の担い手であり、知識人としての自身のあらゆる豊富な才能やまじめな思想も、プロレタリアートが自分たちの運命の主人となった社会に於てこそ初めて花咲き輝くものであることを会得した人々である。そして、躊躇するところなくこの地球が初めてもったソヴェト同盟の革命を支持し、その社会主義社会の達成のために全世界の進歩的な労働者、農民、インテリゲンツィアと共にその第一線に立っている人々なのである。
 マクシム・ゴーリキイの短い伝記を書くときまった時、私は大変嬉しかった。私はゴーリキイを愛しているし、彼がどんなに熱心に生きたかを簡単ながら大勢の読者と共に語り、数々の教訓を引き出したいと思ったからである。ところが、仕事にとりかかって見ると、ゴーリキイの伝を書くということは案外にむずかしい仕事であることがわかった。それ程、ゴーリキイが今日まで経て来た六十五年の歳月は内容豊富であり、波瀾にとみ、その一つ一つがどれもロシア革命の歴史ときっちり結びついている。一八六〇年代以後のロシア革命史は、何かの形でみんなゴーリキイの生涯の出来事のうちに反映しているのである。

 一九二八年、五年ぶりでソヴェト同盟に帰って来るゴーリキイを迎えるために、モスクワもレーニングラードも一種の亢奮で湧き立っている。モスクワの中央図書館では、特別移動的なゴーリキイ展覧会を組織し、ゴーリキイに関するあらゆる資料をあつめ、統計をあつめて大衆に無料公開をしている。労働者クラブの「赤い隅」はゴーリキイの著作と、その工場の労働者がどの作品を一番愛読したかという表などで飾られている。工場の労働通信員たちは、黙ってしかし胸をときめかしている。ゴーリキイが自分達の工場へ見学に来たら、それこそ腕一杯の素晴らしい記事を書かなければならない、と。――ゴーリキイが昔から労働者の手記、新しい作家の作品について親切な注意を払うことは知れわたった事実である。
 南露からコーカサスまでを巡遊し自分の新しい建設に熱中しているソヴェト同盟の労働者・農民の嵐のような歓呼に迎えられ、ゴーリキイは感動からもやや疲れてレーニングラードへやって来た。そのころの私はレーニングラードにいて、「ソヴキノ」試写室で世界的映画監督プドフキンによって映画化されたゴーリキイの「母」を見たりしたところである。ゴーリキイには会って見たい心持を制することができなかった。彼は、いたずらに名士ずきで会う人間とそうでない人間との種類を見わけるであろう。その確信が私に勇気を与えたのである。小さい白い紙に下手なロシア語を書いて打ちあわせ、六月のある朝、ヨーロッパ・ホテルの一つの戸をたたいた。
 ひどく背の高い、ゴーリキイの息子が出てきた。普通の長椅子やテーブルの置いてある室へ案内した。朝日が、二つならんだ大きい窓から大理石のテーブルの上にさしている。そこへ食べのこしたのか、まだ食べないのか一切れのトーストがぽつんと皿にのって置かれている。
 息子と入れちがいにゴーリキイが入って来た。かわいた、大きい温い心持よい手である。低いソフト・カラアにネクタイを結び、茶っぽい毛糸のスウェータァの上へいきなり銀灰色の柔い上着を着ている。瘠せているが息子よりもっと背が高く、青い注意ぶかい、鋭い眼である。
 ゴーリキイは低い椅子にかけ、片肱を膝に立てた恰好で、ゆっくり話す。分り易い、気どらない言葉づかいで、それは体全体の調子とつり合い、深い信頼を起させた。日本の文学のことなどをきき、単純に、
「ソヴェトをどう思うか」
ときいた。私は力をこめて、
「大変面白い」
と云った。ゴーリキイは暫く黙って考えていたが、やがて、
「それは本当だ」
と云った。自分は、貴方はどう思っているかとはききかえさぬ。何故なら、ゴーリキイは五年ぶりの訪問で、驚く
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