色の目をもった祖父の家の中の生活の有様は、到着第一日から幼いゴーリキイの心にうずくような嫌悪、恐怖、好奇心を湧き立たせ、類のない程多岐なゴーリキイの少年時代の第一歩をなした。一つ家の中には家内持ちの二人の伯父がいて、財産分配のことから祖父と悪夢のようにののしり合い、時には床をころげてなぐりあった。そうかと思うと大人まで加わって、半盲目の染物職人に残酷きわまるいたずらをしかける。
子供らは、家の中にいる時は大人の喧嘩にまき込まれ、往来での遊戯は乱暴を働くことであった。土曜日ごとに、祖父が子供らを裸にしてその背を樺の鞭で打った。これは一つの行事である。ゴーリキイはその屈辱的な仕置に抵抗して、とうとう気絶し、熱をだして病気になるまで鞭うたれたことさえある。
一八六一年にアレキサンダア二世が欺瞞的な農奴解放を行い、ゴーリキイが生れた時分、もう農奴制そのものは廃止されていたけれども、二百五十年にわたったロシアの農奴制によってしみこんだ封建制は、家庭の内に信じられない父の専制、主人と雇人との間の専制主義となって残っていた。ゴーリキイの祖父の家の中の生活は、その息づまるような標本なのであった。
熱に浮かされるような恐ろしい生活の中で小さいゴーリキイの心は自分や他人の受ける侮蔑、苦痛に対して鋭く痛み、人間の生活についての観察を学び、一生を通じて彼の特質をなした真理を求める熱情が既に目覚め始めたのである。
この時代、ゴーリキイに最も強い影響を与えたのは、祖母アクリーナの素晴らしい存在である。あらゆる憎悪、衝突、叫びのうちに暮して、祖母さんだけはすきとおるような親切、人間の智慧に対する希望、生活の歓びを失わなかった。彼女の独特な信心で美に感じやすいゴーリキイを魅したばかりではない。聴きてを恍惚させるほどの物語り上手であった。彼が屋根裏で、台所の隅で、祖母から聞いた古代ロシアの伝説、盗賊や順礼の物語は、みずみずしく記憶にきざみつけられたのみか、ゴーリキイの初期の創作のうちに反映しているほどである。
祖父はやがて染物工場を閉鎖した。伯父の一人は自殺し、一人は家を出て、気違いのように吝《しわ》くなった祖父と五十年つれそった祖母との間に不思議な生活が始まった。祖父と祖母とは、茶、砂糖から、聖像の前につける燈明油まで、きっちり半分ずつ出し合って暮した。が、祖父は財産分配の時、祖母に家じゅうの小鉢と壺と食器とを分けただけなのである。祖母は昔ならったレース編を再びやり出した。ゴーリキイも、「銭を稼ぎはじめた。」
休日ごとにゴーリキイは袋をもって家々の中庭の通りを歩き、牛の骨、ぼろ、古釘などをひろった。またオカ河の材木置場から薄板を盗むことも(たまに)やった。それで三十カペイキから半ルーブリを稼ぎ、銭は祖母にやる。――この時代の仲のよい稼ぎ仲間とのほこりっぽい、だが多彩な生活の思い出を後年ゴーリキイは長篇小説「三人」のうちにいきいきと描いている。
八歳になると、ゴーリキイの「人々の中」での生活がはじまった。祖父は彼を靴屋の小僧にやった。熱湯でやけどをしたゴーリキイが二ヵ月で暇を出されて来ると、次は製図工へ見習にやられた。そこで一年辛棒した。生活はあまり辛い。逃げ出して、ヴォルガ河通いの船へ皿洗いとして乗組んだ。
月二ルーブリで、朝六時から夜中までぶっ通しに働かせられる合間、小学を五ヵ月行ったきりのゴーリキイは次第に本を読むことを覚え、プーシュキン、ディッケンズ、スコットなどを愛読するようになった。料理番スムールイが、ゴーリキイに目をかけ口癖のように云った。
「本を読みな。わからなかったら七度読みな。七度でわからなかったら十二回読むんだ!」そして、肥った獣のようにうめいて深い物思いに沈み、荒っぽくどなった。
「そうだ! お前には智慧があるんだ。こんなところは出て暮せ」ゴーリキイは、生涯の中に出会った四人の人生についての教師の一人として、このスムールイをあげている。スムールイは、一度ならずその嘘のような腕力をふるって水夫や火夫の破廉恥で卑劣ないたずらから少年ペシコフをまもったのであった。
十歳の時、ゴーリキイは詩のようなものをつくり、手帖に日記を書きはじめた。日々の出来事と本から受ける灼きつくような印象を片はじからそこへ書きこんだのである。が、それと知った聖画商の番頭は、奇妙な反り鼻の小僧を呼びつけて、云いわたした。
「お前は抜萃帖か何かを作っているそうだが、そんなことはやめちまわなくちゃいけない。いいか? そんなことをするのは探偵だけだ!」
一八八一年、ゴーリキイが十三の時、アレキサンダア二世が暗殺された。
人生の矛盾がますますつよくゴーリキイの心を不安にした。彼の周囲に充満しているのは無智やあてのない悔恨や徒食、泥酔、あくまで互にきずつけ
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