ゴーリキイの疑問と本能的な苦悩はかえって深まった。ニージュニイのこれらの連中のある者はマルクス主義に近づくや否や個人主義的毒素や利己主義や偸安で勝手にマルクスの理論をゆがめ、多くの者は唾棄すべき卑俗な「唯物論者」になり下った。彼らは一人一人の革命家が生死を賭してツァーリズムとたたかった前時代の運動の方法を嘲笑し、もし歴史的な必然性というものがあるというのが本当ならば、物事は俺たち抜きでも何とかなる! と、口笛を吹き出したのである。
ゴーリキイはそういう口笛に合わせる笛をもって生れて来ていなかった。当時ロシアにはびこった機械主義的マルクス主義の理解によって、真理に近づこうとする正当な努力の方向をそらされたのはもちろんゴーリキイ一人でなく、例えば当時ニージュニイで急進的文化活動の中心をなしていた作家コロレンコはそのゆがめられた機械的見解に納得できないままに「唯物論」そのものまでを一種の流行的思想という風に見た。コロレンコは「人生は無数の妙にからんだゆがんだもので合わさっていて」、「それを理論的組立ての四角い中にはめこむことは困難である」と話し、ゴーリキイもそれはそう考えた。二人とも、コロレンコにあっては知的蓄積、ゴーリキイにあってはその鋭い生活的追求力にもかかわらず、正統なマルクスの唯物論というのは、複雑な現実を切って殺して理論の四角い枠にはめるのでなく、逆に最も錯綜し、からみあった事物そのものの根元的矛盾をそのいきいきした発展の道ゆきに於て明らかにし、見透しを与え、より真理に近づく可能性をもつものであることを理解し得なかったのである。
このことはゴーリキイの生涯にあっては後々も或る尾を引いた。重大な時期に、例えばこの伝記の初めに書いた一九〇九年の哲学的論争の時期に於て、或は一九一七年の十月革命の時代におけるブルジョア・インテリゲンツィアの評価に際して、ボルシェヴィキの見解と一致し得なかったことの遠い根源となっているのである。
読書にも討論にもゴーリキイは魅力を失った。「非凡、善、不屈、美と名づけられるべきすべての小さな、珍らしい細片」をじかに人々のうちからあつめたい欲望に刺戟されて、再び放浪の旅に出た。
日雇い仕事でパンを稼ぎながら秋までほとんどロシアの南半分を歩きまわり、最後にチフリス(グルジアの首府)スターリンの故郷に落着いて鉄道工場に入った。処女作「マカール・チュードラ」がチフリス新聞『カウカアズ』に掲載されたのはまさにこの時なのであった。
ゴーリキイは「マカール・チュードラ」をきわめて無邪気に書いた。輝くような話し手であった祖母に似てゴーリキイ自身なかなかたくみな話し手である。友達に放浪時代の見聞を話した。友達は感歎し、ぜひそれを書けとすすめた。そこで、ゴーリキイは書いた。頑丈な二十四歳のゴーリキイの胸に溢れるロマンチシズム、より高く、より強く、自由に美しく生きようとする憧憬を誇り高きジプシイの若者ロイコ・ゾバールの物語にもり込んだ。一篇の「マカール・チュードラ」は当時の蒼白い、廃頽的な、幻をくって溜息をついているようなロシアのブルジョア文壇に嵐の前ぶれの太い稲妻の光をうち込んだ。バリモント、メレジェコフスキー、ソログープ、チェホフもトルストイも、ロシアにどのような力ですでに労働階級が発育しつつあるかを理解しなかった。ゴーリキイもロイコ・ゾバールの物語では労働階級の存在にも問題にもふれていない。一見彼もプロレタリアートとは何ら無関係のようにある。それにもかかわらず、「マカール・チュードラ」を貫いて流れている熱い生活力、不撓な意志、卑劣を侮蔑する強い精神そのものが、おのずからプロレタリアの闘争と一脈相通じるものであった。ゴーリキイはそうと自身知らずに新興労働階級の代表として立ち現れた。どん底からの創造力の可能性をひびかせ初めたのである。
このチフリスで、ゴーリキイは初恋のオリガがパリから二年前よりさらに美しくなり、良人をのこして帰って来ることを知った。狂喜のあまり彼は卒倒した。
ニージュニイに帰った。ゴーリキイは月二ルーブリのひどい離家をかりて、オリガとその小さい花のような娘と三人で生活しはじめた。
コロレンコとの友誼が深められた理解の上によみがえった。「チェルカッシュ」はこの時分コロレンコに励まされ、たった二日で書いたものである。
ゴーリキイは自分の文学的労作について、だんだん真面目に考えるようになって来た。それと共に、フランス小唄のうまい、美食家の、「美しく煙草を吸い、奇智にとんで、男の知人を揺ぶる」ことのやめられない貴族学校出のオリガとの生活は、彼を歩いて来た道から脱する力をもっていることを理解しはじめた。ゴーリキイはオリガとしっかり抱き合い、黙ったまま、いくらか悲しんでわかれた。後年ゴーリキイはそ
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