て居りますのでしょう。女性は人類の母体であると云う理解のない女性の運命は暗うございます。
此点に於て、米国婦人の得て居る権威は、彼女等の総ての明みの起縁に成って居ると思わずには居られません。彼女等は、女性と云う性的差別、性的生活以外に、一人類としての五体をも持って居ります。男性が、一人の良人であり父であると申す以外に、彼の「仕事」を持つ如く彼女等も若し要するならば「仕事」を持ち得る丈の教育と健康とを享有して居るのでございます。が今度の戦乱に際して、婦人の活動が男子同等の能権[#「能権」に「ママ」の注記]を持ち得る事を示したのは、皆此点に*して居ります。良人を送り、同胞を送った女性に、今まで持たなかった力が奇蹟的に湧いたのでない事を私共は考えなければなりません。人は、米国婦人の見識ある事、教養のある事、経済思想、政治的思想に豊富な事を挙げて日本婦人の智的貧弱さを比較致します。
けれども、其なら其等米国婦人の優越は何処から来たものでございましょう。何が彼女等をそうさせたのでございましょう。人は、教育が高いからだと申します。如何にも、物質的に豊饒である米国は、教育機関をより自由に、より完全に運転致して居ります。けれども、或機関があると云う事は、只其のみで齎らさるべき結果の価値を定めるものではございません。幾何の大学が在り、幾種の専門学校があったとしても、若し其に依って開発されて行くべき女性が、彼女等の価値を認められて居なかったら如何うでございましょう。男性と同等の教育をうくべきものであると云う公衆の理解がなければ如何うでございましょう。
女性が人として存在を認められない場合、一般の婦人界が、人類の線上まで浮び上る事は出来ないのでございます。
私は、米国婦人の伸張された権利と、知識との価値を肯定すると共に、其等は悉く、彼女等が、人類として愛され、人類として尊重され鞭撻されるからだと申さずには居られないのでございます。
けれども、私が斯う申すと、きっと或人は反駁して、「私はお前の云う通り、女性を高い位地にまで上げて認めようと為る、又認めたいと思う。従って教育も男子と同等にさせてやり度いとも思う。然し考えて見なさい、日本の女性の裡に幾人、大学教育を受け得、又受けようとする婦人があるか、彼女等は自分で希わないのだ、希わないものに何故無理にもやらなければならないのか、豚に真珠だ。」と申すかも知れません。
そうでございましょう。私は厭でも、大多数の女性が、彼女等の生命に無残な殺戮を加えて尚平然として居るのを見ます。けれども、其の原因をもう少し深く考えないでよろしいのでございましょうか? 教育者の或者は、自ら女性の為に叫ぶべき位置にありながら、利己的保守を致します。女性が私の最も厭う「私は女だから」と申す遁辞に巣喰う事を奨励致します。教育者が、小学校時代から、女性を性的生活以外の範囲に踏み出させない狭隘な教育の※[#「木+窄」、読みは「しめ」、163−4]木に掛けて、憐れにも生気を失った青年女子を育て上げて置きながら、其に向って、其那お前は価値が無いと冷酷にも批判するのは、余り無思慮ではございますまいか。男性が長い間の内に女性に加えた圧迫は、彼女等の発達を阻止して仕舞いました。其でありながら其の原因を蒔いた者が、女性の無智を侮蔑するのは、丁度自分の背後を自らの剣で刺すようなものではございますまいか、恐るべき因果でございます。女性が無言の裡に流した涙を今は男子が、愛すべき価値、信頼すべき伴侶を見出し得ない苦痛に依って流さなければならないのでございます。私は、自ら女性の為に心を痛めます、悲しいと存じます。が、其と同時に男子の為にも悲しみます。無智な母親は、又無智な次の時代を産みますでしょう。時代が、或事件に依って、激変を来たそうとして居る時、変転する文明を理解し得ない女性の存在は恐るべきものでございます。
私は、真個に真心から、もっと、もっと自分の仲間が力に満ちた、広やかな頭脳と胸とを以て生活する事を、其に対する憧憬と努力とをもっと切実にする事を希望致します。私は自分の目の届く限り、心の思い得る限りの女性が、深い愛と、深い叡智によって、世界を薫しくする事を願うのでございます。
C先生、斯様にして心に満ちて来る希望と祈願とは、一層此国の婦人の有する権威に羨望を感じさせます。私は、人類として、婦人が、多くの法律的権利を持つ事も、経済的智識を持つ事も政治的権利を持つ事も歓びます。彼女等の生活を忘れない賢さ、其の真剣さにも尊敬を払います。社会の一員として有機的生活を営むと云う意識は、米国婦人に於て殊に強く認められると存じます。此点に於ても彼女等は、私共の持たない、或は持たなかった賢さを持って居るのでございます。
C先生。
私は此処までで大体米国婦人の優越点を肯定した積りでございます。私は私共の持たない、若しくは持たされない権威の多くを所有する者、所有する価値ある者として、他意なく彼女等を尊敬致します。又自分等の将来に其等の権能を期待も致します。然し、私は、此からもう一歩進んで、其等種々の優越に就てもう少し深い省察を試みたいと思って居ります。其は私共に、或る力の存在の理論的価値と、実践的価値との間に何等かの逕庭の存する事、並びに、其等のより徹した運用に就て、何等かの教と暗示とを与えて呉れるだろうと思うからなのでございます。
(其五)
C先生。
考えるべき問題は非常に多く又深刻で、或意味に於ては、私の知識の欠乏と貧弱さとを表白するのみに止まりは仕まいかと云う杞さえございます。然し、或程度まで私は自分の信仰に信頼致します。今自分の斯くあり度い、斯くあるべきだと思う理論的、或は道徳的理想は、其の裡に何等か心直接の響を持つ事を信じます。私が専念に真剣になった時、心に燃え上る焔の明るさに総てを委せて、此を書き続けるのでございます。
私は先ず、第一米国婦人評に必ず附随する彼女等の「自覚」と申す事に就て考えて見ようと存じます。
此の自覚と云う文字は、非常に広大な発展の基礎に成って居ると思います。人、及び女として自ら覚めた者こそ、始めて、彼女が人類の一員として奉仕すべき自他の関係を発見し、其に処する力を与えられます。先ず女人として深く力強く呼吸した彼女等が、社会の有機的存在の一員として、人格の独立の為に要求し把掴したのが、法律的並びに政治的権力で、其等を可能ならしめる為に、経済的自覚が著しく日常生活に複雑な影を投げて居るのでございます。
然し、私共は、先ず何の為に此等の諸権能の享有と云う事が要求されるかを考えて見なければなりません、又何の為に其等が賦与されるかに就ても考えて見なければならないのでございます。此等政治的法律的権利を保有して社会生活の当面に人格的独立を宣言するのは、人格力のよりよき発展とより価値ある生活への誘導を、向上を宣言したと同様の事でございます。人格者としての一女性が、人類の希願へ、何等かの光明を投ずべく、其の自由な活動を可能ならしめん為に、其等社会組織の要とする諸権利を獲得し、又仕ようとするのでございます。喧しい婦人参政権の要求も、若し其が、単に男性が所有して居るのに、同じ人類である女性が賦与されないのは不公平だと云うその一点をのみ原因として要求するのならば、其は余り浅薄でございます。余り反動的動機でございます。其権利を獲得した事に依って、政界に新鮮が与えられ、よりよき暗示を施政者に与え得るが故に、要求されなければならないものではございますまいか。
女性の自覚は、男性の所有すると同様のものを所有しようとする――一面から申せば何の改造も加えられない現状の模倣――であってはなりません。若し現今、男性の社会生活が認定して居る或権利でも、其の価値が低級である場合には、其の存在を否定する丈の見識がなければなりません。
私共は落付いて、真剣に、人格的自由と云う事を考えなければなるまいと存じます。教養のない者の破廉恥は、教養ある人格者の同様の行為よりは道徳的責任が軽いのは自明の理論でございます。従って、総ての点に人格の独立的権能を保有する者は、其等の賦与されて居ない者より、其の生活に一番人格者としての責任を負うべきでございます。女性が人格者として社会的権能を所有する事は、よりよい叡智に依って、異性との協力的結果の価値を高める為でございます。人間の裡に在るべき叡智のよりよき、より自由なる発動の為に、飛翔の為に、其の機会を多数に、多種に拡張し保護する権能が要求されるのでございます。私共は其の道程にのみ終始するべきではございません。使用すべき権能に使用されてはなりません。如何程鋭利に研かれた小刀《メス》も其を動かす者の心の力に依って鈍重な木片となる事を私共は知らなければならないのでございます。
斯様に考えて来ると、私共は、米国女性一般が果して、彼女等の権能を如何程までの反省を以て把持して居るだろうかと思わずには居られません。参政権を賦与された婦人の幾人が目下大統領を困らせ抜いて居る政党関係を知って居りますでしょう。
女性の名誉と、経済的保障の為に制定された離婚訴訟に関する権利を、如何程の深い、価値ある態度で運用して居りますでしょうか。離婚後の扶助料を以て暗々裡に良人を威嚇しつつ同棲生活を続ける夫人連や、利己的の恥ずべき動機から離婚訴訟を起して、良人の心に致命傷を与えるのみならず、自分の魂にまで泥をかける或種の、数に於て多い夫人達がどうして自覚ある人格者と申せますでしょう。女性の人格者としての価値は決して、同じ昇降器《エレベーター》に乗合わせた男子に脱帽させる、その脱帽と云う形式で付けられるものではございません。
長い時間がいつか最初の動機の意味も純粋さも失わせて、只一度の形式と化した或礼儀などに固執して、其によって自己の尊厳を感じたり、侮蔑を感じたりするのは、余りに鈍い心の所有者と申さなければなりません。
けれども、C先生、私は真個に伝習の力の恐ろしさを思わずには居られません。常套の不思議な催眠力を恐れずには居られません。米国婦人が、不用な奢侈品に良人の体中の油汗を搾らせながら、祈祷の文句を誦し、人道の為に、彼女等が殆ど一人として云わない事はない Humanity の為に是非を喧しくするのが一種の常套《コンベンション》であると共に、日本の現代の常套《コンベンション》は女性の経済的独立と称し、職業的自覚と称して、無自覚に価値もない者の使用人《エムプロウウー》と成る事でございます。
此の種の常套に対して、私共は、此とは全く正反対に、あくまでも保守的な、女性を男子以下の生存として肯定した消極に棲息する一種の常套のある事を発見致します。そして、米国の娘も、又日本の青年女子も、此の二つの両端に彼方へ索かれ此方へ索かれして、迷いに迷った末、終に私の此から申そうとする、最も時間に於て新らしい一つの常套的生活に納まって仕舞います。其は、厨川白村氏が、私の云い度い心持を最もよく表現した文字で書かれた、“Against the Convention of Unconvention”を主張する一群なのでございます。
(其六)
C先生。
今日の私共を囲繞する社会は、「英雄と神との時代」を過ぎて居ります。
社会の有機的組織の緊張は、其裡に生存する各箇人に、公衆との相互関係を痛感させます。物質的生存の不安に対する暗示も其に与って力ある事でございますが、現代の公衆の箇分子は、相互に緊縛した相対的関係を忘れる事が出来ません。そして、社会の有機的組織は、箇人の種々雑多な箇性に依って構成されるものではあっても、若し自分が比較的安易に、且つ好結果を得ようとするのには、どうしても、其の相互関係に何等の不調和をも起さない程度に、自らの箇性を馴致する事を、意識無意識に必要と認めるようになります。米国の箇人的教育は、各種の箇性を重んじながら、其の功利主義の伝統的暗示、或は宣伝に依て、箇人的気質が、公衆の不文律に順応
前へ
次へ
全7ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング