ざいます。
 前提が少々長く成って仕舞いましたが、此処から以前の主題に戻って、此国の女性と、その観察者の態度と云う事に就て考えて見ると、私はどうしても、その観察者――紹介者の態度に大別して二様の傾向が在ると思わずには居られません。従って、若し此の二様の傾向の存在を肯定するならば、私共は又引いて、紹介される此国の女性観も、同じ差異を持つ事を考えなければならないのでございます。

        (其二)

 C先生。
 私は此の国の女性に対する観察者の態度が、大別して二様の異った傾向を持つと申しました。其を説明すると、第一は愛すべき米国女性美の崇拝者であり、第二は、嫌人的《ミザンソロピカル》な酷評者の一群と成るのでございます。
 然し其ならば何故左様な傾向が在るのでございましょう。その最も大きな原因は、今までその紹介に従った観察者が、多く男性であったと申す事によるのではございますまいか。
 元より、外国の生活をしたのは決して男性に限られた事ではございません。女性で此国の生活の日常に入って経験した方はございます。けれども先生は、女性同士の間の、特種な無関心を御存じでいらっしゃいますでしょう。或時は同性の心易さからの無関心――無邪気な放心であり、或時には微妙な、宛然流れ混る雲のように微妙な、細心な uneasy から、無関心に遁げる場合もございましょう。其に、如何うしても、生活範囲が或一区画に限られ勝でございますから、刺戟の少い圏境のうちに、働くべき省察は眠って仕舞う事もございましょう。其等種々の原因は兎に角、我国の女性が、女性自らの事に就ても、可成沈黙であると云う事は、如何うしても、一方男性の言に多くの反響を迎える結果になるのは争われない事実でございます。従って、米国女性観とも申すべきものは、殆ど皆男性の手に成されたものとも申し得るのでございます。其故、私は此処で、今日までの過程を反省して、先に申した二の差異ある観察の態度に就ての批評も、数に於て多い男性の上に、其の基礎を置こうとするのでございます。
 先ず第一、愛すべき崇拝者の場合に就て考えて見ます。
 人はよりよきもの、よりよき如何なる些細なものに対しても、無我に謙虚である事はよろしゅうございます。そうでなければなりません。然し、考えなければならない事は、無我の謙虚と云う事と、理智の催眠《ヒプノタイズ》させられた感情的称嘆とその事との間には大きな差の在る事でございます。或る輝きに盲目にされて、夢中に双手を挙げて叫ぶ感激は、純粋な批評と申す事は出来ません。感激の強度と、批評的価値の高下とは綿密に考えられなければならないものではございますまいか。
 けれども、私共は先ず、此の催眠させられる程烈しく湧き上る憧憬は、如何なる背景をその後に持って居るか考えなければなりません。其程の恍惚の歓びは、何処から来るのでございましょうか。崇拝者の多くは、その程度の差こそあれ、悉く現今の日本女性に、満たされない心を持った一群であると申す事が、何よりも雄弁にその原因を物語って居るのでございます。
 現代の日本女性に就て公平に考えて見ると、或種の人々の考えて居るように、楽観すべきものでも無く、或人々の只一口にけなす程価値の無いものでもございません。教育家の一部が易々諾々として教案を草し、その教案によって百年一日の如く恐ろしい厭怠の裡に所謂良妻賢母を説いて居る、その偽瞞の現状維持は、強いても日本女性を楽観して居ります。然し、其は軈《やが》て彼等のギロチンになりますでしょう。若い女性、従来若いと云えば、直ちに幼稚な頭脳、浅い判断と云う追従語によって形容された青年は、少くとも、生命に満ちた心其もので現代の不安を感じて居ります。魂を強め、生活に力を与える暗示を得る事は望んで居ります。一般に、彼等自ら、何とも知らぬ、言葉に表現出来ぬ不安な模索を仕て居るのでございます。青年を否定する事が直ちに反映して、彼等自らの青年時代の侮蔑であるのを知らない或人は、周囲の青年の価値を低める事に依って自らを高めようとする卑劣さがございます。所謂女らしさと云う曖昧な軛と、極端な家族制度の弊と、男性の無智と不備な社会制度は、進路を展こうとする女性に無限の苦悩を与えて居ります。其上に、長い伝習と、不具な教育とは、女性自らの体力と智力とをも束縛して居ります。従って、現代の日本の女性の裡には無数の夭折する――心理的の意味に於て――力が埋められて居ります。何物をも産出する事の不可能なよき魂がございます。よく成ろうとする無数の力、発展しようとする発芽の希願は、厚い塵芥の堆積の下で、恐るべき長時間を過さなければならないのでございます。
 私は明かに私共の仲間である多くの若き女性が、少くとも次の時代に於て、何等か有形の発展を遂げ得る動機を各自の裡に包含して居る事丈は肯定致します。
 然し、自意識の欠乏は、同じ女性である者にも尚一種の歯痒さを与える事も否めません。自意識の欠乏は生活のあらゆる角に、力の弱い朦朧さを与えます。総てから決然たる決定が奪われます。積極が逃げて仕舞います。
 そして田野に円舞して、笑いさざめき歌を歌う生命の活気もなければ、専念に思考を練って穿ちに穿って行く強度も無く、表情が、力の欠乏に生気を失って居ると全く同様の状態が内奥の魂にまで食い入って居ります。愛する者をして愛さしめよ! 良人と自己の愛の為に斯く断言し得る者が幾人、無数の妻の裡にございましょう。真個の伴侶は、友は、而して母は、少うございます。
 其の一口に申せば生温《なまぬ》るさに、満ち足りなかった男性の心は、此国の強健な肉体と、少くとも自己を主張し得る女性の「張り」に、甦ったような解放を感じずには居られないのでございます。弾力のある心、態度の快さに目の覚めるような鮮やかさを感じます。多種な容姿と表情は、子供時代からの両性交際に練れ切った巧なタクトと倶に、彼の周囲を輝やかせますでしょう。そして、其の目前の女性は、宇宙の女人其ものの表象であるかの如く、彼の脳裡から悉く他の女性の型を追い払って仕舞うのでございます。

        (其三)

 C先生。
 斯様にして、彼の魂の活気と悦びを新たに甦らせた女性美は、彼の口から殆ど無条件に理想的なもののように語られます。語りつつ彼の心に起る陶酔は、言葉にいつか装飾を加え、その興奮の快さは我を忘れさせます。其処で、智的で洗練された情緒の所有者である米国の女性は、正当に伸張された法律的、政治的権利を保有して、健全な美くしい肉体と倶に、総ての国家的文明に貢献して居ると申す事になるのでございます。
 私は決して、此の言を絶対に否定は致しません。然し、加えらるべき考察はございます。私共は此よりは、もう少し、観察者の落付いた、一面から申せば惑わされない眼で、もう一枚彼方を透視仕なければなりません。
 第一の傾向が斯様であるに反して、第二の部類は、全く此とは正反対でございます。
 米国の婦人は主我的で、非家庭的で、軽率で感情的だと云う事が極度にまで強調されます。彼の前に米国の女性は愛し、尊むべき女人ではなくて或人の言を借りて云えば、単に“Female”であるに過ぎない、其も物質的な、金の掛る家畜だとまで酷評されるのでございます。
 私共は、斯様な放言に対して、総ての女性の尊厳の為に飽くまでも申さなければなりません。斯様な批評を下す人は従来日本の女性が魂まで殺戮されて来た半婢半娼の待遇を、家長――男性の女性に対すべき態度だと思い、その無自覚な沈黙と奴隷的な服従とを女性の誇るべき美徳と妄信する輩でございます。彼の渾沌たる智は、「今」に発育しつつある文明の急速な変転を知り、理解するには余り頑迷でございます。彼を自殺させる女性観は、米国婦人の持つ総ての積極と自動的生活との前にしどろもどろな咆吼を致します。女性に対する誤った態度は、彼に触れる総ての女性から孤立させられますでしょう。そして、憐れな魂は、暗澹たる故郷への郷愁と、懣怨と、一層深入りした我執との裡に転々して、呪を発するのでございます。彼等の最終の呪文は、我国古来の美風を忘れて、徒に浮薄な米国婦人等に其の範をとるのは杞うべき事、恥ずべき事である、と云うのに終りますでしょう。
 我国古来の美風――友よ、其なら貴方はその美風が如何なるものであるか御説明下さいますか? 彼は、丁度或種の施政者が、「我国体の神聖」「勅語の精神」と云う文字を駆使するのと同様の内面の空虚を文字の麻酔で紛して居ります。彼は、左様な質問を呈出したなら、きっと、其那事を質問する馬鹿があるか、何の為に修身を習って来た! と真赤になりますでしょう。
 然し、C先生、此は決して冗談ではございません。日本の所謂先覚婦人は、兎角、青年自らの発言に耳を傾けるより先ず先に、此等の種類の言葉に賛意を表します。彼女等の権威《オソリティー》と他人の権威とは奇妙な価値判断の錯誤に陥ります。過去は尊ばるべきものでございます。その価値は、嘗て刹那の「今」であったと申す点から評価されるので。直接の対象は永劫の「今」の其の瞬刻に置かれるべきでございますまいか。何の為の先覚者でございましょう? けれども、私共は一方から申せば共通な人間の不思議な弱点――或は力の他の一面に対して寛大でなければなりません。が、左様な態度は二重に不幸を醸さずには置きません。第一は、只さえも保守的な退嬰主義に堕し易い女性一般の傾向を暗々裡に称揚する事になると同時に、他方では、一層反動的、爆発的の急進を促す事になるからでございます。其で、私は此から、私の出来る丈の細密な思考を廻らして、私の出来る丈公平な、出来る丈無我な態度で、私の観察し得た範囲の米国女性観を述べて行こうとするのでございます。斯様に広汎な問題を取扱う時、私共は如何うしても「一般」と云う点に其の目標を置かずには居られません。何処の国にも極端はございます。そして其の極は詰り人間の生活の極だとでも申しましょうか、哲人の価値は神の光栄でございます。痴人は人類の悲歎でございます。其故、私は真に徹した生活をして居る者の価値は、日常生活の風習の差異等を眼中に置かない共鳴を持つと信じて居ります。然し、私が此から観て行こうとするのは、一般でございます。中位《ちゅうぐらい》の一群でございます。私が故国の女性を思うと同じ一般の女性を語ろうとするのでございます。
 第一、米国婦人の一般が、優秀な健康の所有者であると云う事は、何を以て否定する事も出来ない事実でございましょう。確かに彼女等の精力は、私共日本女性を超えて居ります。そして、彼女等の体躯が強壮であると云う事は、其裡に単に運動を重んじるとか、衣服が活動に便利であるとか申すより以上に深い根原を持つ事を知らなければならないと存じます。
 或一民族の健康状態が、その民族の国家的境遇並に文明の程度と重大な相対的関係に在る如く、女性の生理的健康の差異は、其の根深い原因を彼女等の所有する精神的歴史の裡に持って居るのでございます。
 民族的悲運に陥って居る国民が、生理的に優越国民を凌ぎ得ない事は、彼等の悲しめる魂の所産でございます。絶えざる不満、圧迫の下に束縛されて、嘆き悲しみつつ軈ては其にも馴れて無感覚に成った不幸な魂が、如何うして輝く肉体の所有者に成れますでしょう。
 基督教が赤子の時から吹き込んだ「平等なるべき」人類として、彼等の尊重すべき伴侶として立つべき位置に立てられて幾代かを経た此方の女性と、彼女の最愛の「良人」をさえ「主人」と呼んで暮して来た日本女性との間に、其の力ある発展に於て差異を持って居るのは、寧ろ悲しむべき当然と申さなければ成ないのでございます。

        (其四)

 C先生。
 人間は人間を超える力を持って居ります。然し其と同時に、獣より悪い獣に成る事もございます。人は少くとも人間の構成した社会に於て持つべき正当な権利と義務丈は、正確に自覚し又保有すべきではないでございましょうか。人類として総勘定の内に入れられないとすれば女性は何の為に存在を許し、許され
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