して行ける程度の寛和、或は弛緩を加えて居ります。従って、群集の各人は、箇性の力に明かな局限を認める事に馴れ、其の局限の此方でする活動が、結局は夢想でない今日の現実に於て最も有効である事を滲み込まされます。其で、所謂賢明な者は、相当に一般を首肯させる理論を前提として、最も安全な現状維持を主張致します。此の傾向が、“Against the Convention of Unconvention”を称する一群の動機に大きな関係を持って居る事は争われないのでございます。箇性の各種の発動を自由ならしめる為の社会組織は、その物質的圧迫、或は群集の常識的低見の為に、却って伝習的形式の下に尊むべき箇性を従属せしめようと仕兼ねない価値顛倒に陥って居るのでございます。
私は勿論、前にも其と同様の心持を陳べた通り、或ものを、其が只歴史的存在だからと云うのみで否定したり、或は、単に一般的であるからと云う理由のみで拒絶する、浅薄な反動的態度は肯定する事が出来ません。そう云う態度に出る者の裡の不純さと、粗雑さとに私は心を悦ばす事は出来ません。其等の欠点を反省して、より純真な、より高い価値を持った動機に依って、常套打破を試みようとする意向と努力とが含まれて居れば、私も、Unconvention の持つ常套《コンベンション》に対する反抗を認めますでしょう。然し、此の一群の人々は、此の標語を振りかざして、単に常套に堕した現状維持につくから、私はよろこぶ事が出来ません。白熱した純一な動機から、無意味な、価値の怪しむべき常套を破る丈の心力が乏しい、その魂の無力を、率直に謙虚に承認し得ない虚栄心から構えた理論が私の心を苦しめます。
「無為の聖」が、力の欠乏を装飾する用語になるべきではございません。人類の愛に対する不真実を、哲学的偽瞞で被うのは卑屈でございます。
私は、現今、米国の女性の生活を非常な勢力で支配して居る此の傾向を打破って、真実な意味に於ての常套打破を期待して居るのでございます。
反動的衝動であってはなりません。自暴自棄の粗暴であってはなりません。若し其が真の価値批判に於て高価なものであるなら、所謂現代が嘲笑する伝統に晏如として自信ある認定を与えながら、如何に喋々され、絶叫される傾向であっても、其が無価値ならば、最後の唯一人として否定し得る、其の定見が総ての点に欲しいのでございます。
此を
前へ
次へ
全32ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング