た男子に脱帽させる、その脱帽と云う形式で付けられるものではございません。
 長い時間がいつか最初の動機の意味も純粋さも失わせて、只一度の形式と化した或礼儀などに固執して、其によって自己の尊厳を感じたり、侮蔑を感じたりするのは、余りに鈍い心の所有者と申さなければなりません。
 けれども、C先生、私は真個に伝習の力の恐ろしさを思わずには居られません。常套の不思議な催眠力を恐れずには居られません。米国婦人が、不用な奢侈品に良人の体中の油汗を搾らせながら、祈祷の文句を誦し、人道の為に、彼女等が殆ど一人として云わない事はない Humanity の為に是非を喧しくするのが一種の常套《コンベンション》であると共に、日本の現代の常套《コンベンション》は女性の経済的独立と称し、職業的自覚と称して、無自覚に価値もない者の使用人《エムプロウウー》と成る事でございます。
 此の種の常套に対して、私共は、此とは全く正反対に、あくまでも保守的な、女性を男子以下の生存として肯定した消極に棲息する一種の常套のある事を発見致します。そして、米国の娘も、又日本の青年女子も、此の二つの両端に彼方へ索かれ此方へ索かれして、迷いに迷った末、終に私の此から申そうとする、最も時間に於て新らしい一つの常套的生活に納まって仕舞います。其は、厨川白村氏が、私の云い度い心持を最もよく表現した文字で書かれた、“Against the Convention of Unconvention”を主張する一群なのでございます。

        (其六)

 C先生。
 今日の私共を囲繞する社会は、「英雄と神との時代」を過ぎて居ります。
 社会の有機的組織の緊張は、其裡に生存する各箇人に、公衆との相互関係を痛感させます。物質的生存の不安に対する暗示も其に与って力ある事でございますが、現代の公衆の箇分子は、相互に緊縛した相対的関係を忘れる事が出来ません。そして、社会の有機的組織は、箇人の種々雑多な箇性に依って構成されるものではあっても、若し自分が比較的安易に、且つ好結果を得ようとするのには、どうしても、其の相互関係に何等の不調和をも起さない程度に、自らの箇性を馴致する事を、意識無意識に必要と認めるようになります。米国の箇人的教育は、各種の箇性を重んじながら、其の功利主義の伝統的暗示、或は宣伝に依て、箇人的気質が、公衆の不文律に順応
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