C先生への手紙
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)数多《あまた》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二百|哩《マイル》程隔った湖畔は、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+窄」、読みは「しめ」、163−4]

*:不明字 底本で「不明」としている文字
(例)皆此点に*して居ります。
−−

       雑信(第一)

  C先生――。
 其後は大変御無沙汰致して仕舞いました。東京も、さぞ暑くなった事でございましょう。白い塵のポカポカ立つ、粗雑なペンキ塗の目に痛く反射する其処いらの路を想像致します。御丈夫でいらっしゃいますでしょう。
 此間中から、私の思って居る種々の事を申上度いと思って居りましたが、つい延び延びに成って仕舞いました。決して忘れて居たのではございませんが、近頃、私の生活の上に起った変動は、非常に大きく私の精神上に波動を与えました。決して混乱ではございません。が、その大きく力強い濤が、勇ましく打寄せて、或程度まで落付いて仕舞うまで、私は口を緘んで、じっと自分の魂の発育を見守って居たのでございます。
 家を離れて来てから、時間としては、まだ僅か半年位ほか経っては居りません。
 けれども、海を境にして、私の「彼方」でした生活と、今「此処」で為る生活との間には、殆ど時間が測定する事の出来ない差がございます。眼が少しは物象を見るようになりました。耳が微かながら、箇々の声を聴くようになりました。つまり、私は漸々自分に生きて来たのでございましょう。真個に足を地につけて、生き物として生き始めたとでも申しましょうか。今までの私は、生きると云う事を生きて来たのだと申さずには居られません。
 概念と、只、自分のみの築き上げた象牙の塔に立て籠って、ちょいちょい外を覗きながら感動して居りました。従って、私は何に感動して居るのか、又するべき筈だかと云う事、又その感動の種類は大抵分って居りました。ところが、人間が活きて動いて居る世の中はなかなか其那、整然たるものでもなければ、又其程、明るいものでもございません。
 人と人と鼻を突き合わせて見ると、何と云う人臭さが分る事でございましょう。
 人間の醜さ、人間の
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