あつかわれている。何だかたっぷりしない。色彩の豊富な活きた印象が乏しい。私共は親しい源氏物語の光君は持っているが、彼とても、彼と交渉を持った数多い女性達の優婉さ、賢さ、風情、絵巻物風な滑稽等の生彩ある活躍にまぎれると、結局末摘花や浮舟その他の人物の立派な紹介者というだけの場合さえあるようだ。種々な作品を一般にいうと、女性の作家は何かの形でいつも「女としての」何ごとかを世間に向ってクレイムしていると思うのは私の誤だろうか。そういう相対的な観念を躍り越え、いきなりぐっと生《き》のままの男性に迫り、深い理解、観照を以て心や体を丸彫りにする場合は尠い。理解や観照は対象を愛することから生ずる。好奇心を刺戟されることから起る。そして見ると、女性は、男性が女性を愛すように男を愛さないということになるのだろうか、と私は不思議になるのである。
 本当に、女は男を愛さないのだろうか? それとも余り愛しすぎるので恥しがって愛さないようなふりをするのだろうか? 女性の芸術家が、男を充分視、自分のものとして活々扱わないのは、種々微妙な原因がありそうに思われる。第一、概して云って、女性は昔から受け身に愛されて来た
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