、そのすべてがこの地上から消滅して仕舞うのだと思うと、人々の記憶に残るほどの仕事も、短い年月の一生に仕あげられなかった彼の人の気持を察しないわけには行かない。
神田の病院で、彼の人は何を思って居る事だろう。
私が若し今、そう云う境遇になって、死の宣告まで与えられたら、自然にその日が来るのを待ちつづけて居るほどの勇悍な心はない。
はげしい生の執着に悩んだ揚句は、気でも違ってしまうだろう。
あきらめがないと云われても仕方がない。
意気地がないとけなされもしようけれども、自分の一生の仕事を心嬉しく定めて、日々務めて居る。この希望の多い、栄ある一生を、どうしてそう素気なく思い切れよう。
私が四十代にでもなったらどうかは知らないけれども、今の斯う云う気持は詐《いつわ》られない。
彼の人がそんな悲しい日を送って居るときいた十日程後、私は到々思い切って手紙を書いた。
雨が静かに降って居た。
家人から遠ざかった私の書斎は夕飯時でさえやかましくない程なのに、更けた夜の淋しいおだやかさと、荒れた土の肌をうるおおして行く雨のしとやかさが、私の本箱だらけの狭い部屋に満ち満ちて、着て居る薄い袷
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