人々がうけもつという仕組みにされた。つまり、クラブの発起人であった人々は、執筆者としての関係におかれ、クラブの実務者である櫛田ふきさんが名目上の編輯人であった。
婦人民主新聞の編輯局は、銀座裏の中部日本の一部におかれた。そしてなんとなくこれでいいのかしらと思うような出発をはじめた。婦人民主クラブはまだやっとヒヨッコのあゆみだし、新聞が特別な性質のものである上に用紙の制限その他の理由で一躍商業新聞と競争してゆけようとも思えない。だけれども事務所へ来てみると六、七人の男の人がぞっくりとつめていて、それぞれに家族もあるだろうのにどうしてやってゆけるだろう。いかにもそこが不安だった。日本の民主化、婦人の民主化。これは何年もかかる歴史的な仕事である。一時「感激」がどんなにはげしくても、そして、その「感激」をわけあう男の人たちが数人集ったにしろ、仕事そのもののじみな本質は必ず経済問題にぶつからずにはすまない。その現実はどう解かれてゆくのだろう。これこそみんなの不安であった。
いよいよ八月二十六日、週刊『婦人民主新聞』がおくり出されることになった。名目上の編輯人である櫛田ふきさんの活動は、不思議な忙しさをもってきた。毎朝、鷺宮から銀座裏へ出勤してくる櫛田さんの大きい手提袋の中には、のりと鍋と刷毛が入れられるようになった。クラブの事務をたすけている若い人々と櫛田さんは、新しく出る婦人民主新聞のために宣伝のビラをはり、発送を担当し、ある時には新聞の立ち売りをやらなければならなかった。
櫛田さんは夏の陽にやけて色が黒くなった。そのように働いた。それは彼女にはげしい疲れを与えることであったが、その頃八年ぶりで婚約者がやっと、生きてかえることができた。十九から二十七までその人を待っていた娘さんのよろこび。櫛田さんのよろこび。それは言葉につくせない大きさであったろうと思う。互いに支えあって苦しい年月をしのいできた母と娘の生活に大きい変化がおこった。娘さんはその人と結婚し、そのような結婚がどれほど愛情を集中させるかということは誰にも分ることである。櫛田さんが娘さんをそのような若妻としての位置において眺めて、衷心からともによろこび、安心することができたのは、母としての櫛田さんが何時の間にか広い社会的な活動の中に自分をおくようになっていたからではなかっただろうか。
父親に早く別れた男の子と
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