たりではなかった。クラブのような仕事は、本当に人々の話相手になれるだけの婦人として人生の経験をゆたかにもった人が中心にいなければならないし、同時に常にわかわかしくて、人間の希望的な情熱を失わない人でなければならない。日本は半封建の社会で婦人の活動場面が非常に狭いから、婦人団体といえばその狭いなかで、互にぶつかりあったり、そのぶつかりを既成勢力に利用されて結局、婦人ボスのあらそいとなったりしてきた。婦人民主クラブは、少くとも人間として社会に生きようとする全日本の婦人の友だちでなければならないし、どんなに弱々しい誕生をしたにしても、日本がまた再び戦争にまきこまれないためには、真実の努力をおしまず平和をかちとるための存在でなければならない。
当時クラブ出発に関係していたいろいろの婦人たちの賛成を得て櫛田ふきさんが、実務の担当者となったことは、彼女の亡き良人が経済学者の櫛田民蔵氏だからではなかった。ふき子という彼女その人の婦人としての生活経験と、人間としての可能性によってみんなの信頼を得たのであった。
婦人民主クラブの小さい看板が鷺宮の櫛田ふきさんの住居にかけられた。そして趣意書を印刷し、それを発送する仕事がはじまった。創立大会を準備する仕事がはじまった。同時に、敗戦後第一回の選挙がせまって、日本の婦人たちがはじめて政治上に意志をあらわす機会もきた。この事情は、はじめぼんやりとした日本の社会と婦人の生活の民主化を希望して集りはじめていたクラブの発起者たちの間に変化をもたらした。ある人はこの第一回選挙に立候補してまっすぐ政治生活に入っていったし、ある人は婦人労働問題や教育問題で専門の方面に新しい活動分野をひらかれるようになっていった。
婦人民主クラブが実務の担当者として櫛田さんを見出したのは、決して間ちがっていなかったことが、この時期からますますはっきりしてきた。櫛田さんの骨惜しみをしない忠実さ、よい主婦、きちんとした母親らしい仕事ぶりが、全く不如意で物も人手もたりないづくしのクラブの事務に大きいプラスとなった。
三
クラブが出発した半年後に、『婦人民主新聞』が発行される計画ができた。用紙割当のことでは羽仁説子氏の尽力もあった。新聞経営の実際面は、当時、外地からひきあげてきていた数名の専門新聞人が引き受け、婦人の新聞として独自の編輯面をクラブの
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング