ては、その時は何もしらずに。
 やがて櫛田さんが帰ってから、栄さんはその人について少し説明した。もうその頃は男女学生の勤労動員もはじまっていて、日本青年団の女子部の仕事は戦争協力一点ばりであった。おそろしい運命にさらされて勉強もできずにいる若い女性に、せめて人間らしいよみもののひとつも与えたいと、編輯者である櫛田さんはいつも努力しているということ。それというのも、さっき一緒に来た娘さんが出征させられている婚約の人をもう六、七年まちつづけているから一層若い人々の今日の境遇を思いやってのことだという話だった。いわばあてのない人をそうして幾年も待っていても、と周囲がとやかく云いだして来ている。娘さんとしてはそれらの言葉に動かされる心持がない。母としての櫛田さんは、ぐるりの人々の親切から出る忠告をやわらかくうけながら、娘さんの一途な心をいじらしく思って、母と娘と心は一つにして婚約の人の帰るのを待っている。若い人々が戦争によって不幸になっている。その日々の気のはり、笑いの中に涙を母の実感としているのだということだった。

          二

 この話はわたしにつよい感銘を与えた。娘さんがひとすじに愛する人との再会を確信し、それを待っている心持、それはその頃のわたしが生きている毎日の心持そのものであった。だけれども、戦争は惨酷であり、日本中には幾千人が同じようにあつい心で待っているか知れない、その人々の生命と愛情とを保証するどんな小さい条件も約束していない。壺井栄さんの物語をきいたとき、わたしはすずんでいる夏の夜の暗さが、ひとしお濃くあたりに迫るように感じた。もし万一その婚約の人が生きてかえることができなかったら。――ある日、その人の戦死が知らされたら。――櫛田さんは何として娘さんを支えるだろう。櫛田さんの母としての心、娘さんの心もち、どちらも、その期待、その不安によってわたしの実感にしみとおるものだった。その辛さにかかわらず若い娘さんのその心を共に生きて、守ってやっている母としての櫛田さんにわたしは、母というあたたかさにふさわしい、いいものがあることを強く印象づけられた。

 一九四六年の一月にどちらかといえば偶然な動機から、婦人民主クラブが誕生して、クラブの実際的な活動の中心になれる人をみんなでさがしたとき、わたしとして櫛田ふきさんをおもいうかべたのは、ゆきあたりばっ
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