女の子とを櫛田さんがよい母として育てあげて、しかも子供たちがより複雑にくみ合わされた大人としての愛情の中で、やっぱり櫛田さんをよい母として信頼し愛してゆけるように生活する条件をひろげていたことは、多くの主婦、母、そして家庭の内では姑といわれる立場におかれる婦人の生き方について示唆するところが少くないと思う。
婦人民主クラブの活動を通して櫛田ふきさんの社会的な視野はひろがり、いつもわかわかしい人々の中で働いていることは、彼女の母性を拡大して日本の若い女性の世代への母性としていった。
四
クラブの仕事も、たえ間ない困難と障害にぶつかった。考えてみればこれらすべての困難は、みんな過去四年間の日本の社会そのものが旧さと闘い、民主化のすりかえと闘いつづけてきたその困難であった。
一九四八年一月から半年のあいだ、婦人民主クラブは特別むずかしい問題にぶつかった。婦人民主新聞が経営難から身売りしなければ立ゆかないという事情におかれた。それまで執筆者としての関係にだけおかれていたクラブの人々は、この危機にはっきり自己批判した。もう経営のことは男の人たちにまかせておいてもいいなどという料簡ではいられないこと。クラブの機関紙としてこそ用紙の割当が許可され、みんなも慾得ぬきに執筆し、クラブそのものは少しずつでも大きくなってきているのに、ここで新聞を経営部の主張によって売ることになってはならないという結論がでた。半年間あれこれのいきさつがあって、婦人民主新聞は、クラブの機関紙として続刊される条件を闘いとった。この時期に新聞の編輯委員会に関係のあった大勢の婦人たち、クラブ書記局の人たちが、それぞれに職業上の経験と性格とを生かしてはげしく活躍した物語は、何時かまた話される折もあるだろう。新聞は松岡洋子を編輯長とした。
櫛田さんは当時クラブの書記長であった。新聞そのものを実質的にクラブの機関紙としてゆくための闘いの時期、当然櫛田さんの心労ははなはだしかった。ちっとも金をもたない婦人民主クラブが、ともかくひとつの週刊紙を借金の上から送りだしつづけてゆくことは、楽なやりくりでありようなかった。また、クラブの仕事も新聞の仕事もひどかったから、そこにはどうしてもいろいろの摩擦がおこってくる。みんなのくたびれて泣き出したい気持がうずまいて、それは書記長である櫛田さんをひきずり
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