やりこなして行くのが一番利口なのさ。
 生きるために、天道様は人間をお作りなすったんだものね。
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 非常に力強い後援を得た気持がしてお関は床の上に起きあがった。
 そして手を膝にちゃんとのせて、どうしたら巧く事が運んで行きそうだかと云う事を考え始めた心の中には今まで覚えなかった力と快感が満ちて居た。
 やや暫く暗い中にじいっとして居たお関は、
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「ああ、それに限る。
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と云うとさも満足したらしく――自分自身の心の働きを感謝する様な合点をすると、大きな溜息を一つして又床についた。
 けれ共寝付かれないらしくモタモタと体を動かして居たお関は、今度はスーッと音も立てずに起きあがると、白い浴衣の姿を暗い中に気味悪く浮べて影の様に次に並んで居る布団に手をかけた。
 枕の所へ口を押しつけて何か囁いては揺り、揺っては囁いて居ると、その床からムックリ立ち上った黒く大きい影と一緒に開け放した土間の方へ幻の様に裾を引いて下りて行った。
 静まり返って死んだ様になって居る土間に微かなカタカタと云う音とシュッと云う音が聞えたきりあとは前にもました静寂な四辺一杯に拡がって主屋からは主人の大きないびきが重苦しく流れて来て居た。
 農具とその他の樽や古箱等の積んである土間の一番の隅に一かたまりの様になってお関と重三が立って居た。
 塵の厚く積った様な桶の底に燈されて居る豆ランプはピクピク、ピクピクとひよめいて一息毎に湿った土間に投げ込まれたまま幾年か立って居る廃物を淋しく照し出し、二つの影を魔物の様に崩れて恐ろしく大きく震わせては藁の出た荒壁に投げつけた。
 ホッ、ホッと立つ細い油煙の臭いと土の臭味の満ちた中にお関は自分の髪結いに用う大形の鏡を持って立って居るのであった。
 お関は鏡を高く持ち上げて互の顔の高さまでにした。
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「あ、お前これをお持ち。
 顔をもっとこっちへお寄せ。
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 お関は鏡を重三に持たせて自分は豆ランプをかざした。
 灰色になった髪の汚なく寝乱れて、横皺の深く刻み込まれた額の下に三角形の目のある鼻の低い猿の様な口元の顔は、世の中の最も醜い者として選ばれた様な若者の顔と並んで長方形の枠の中に現われた。
 弱い光線は二つの顔を照すには充分でなかった。
 明る味の届かない所には肉の腐れ落ちて居る様な不気味さを以て暗く、そうでない所は身震いの付く程の黄黒さを以て描き出された。
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「私のする通りにおし。
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 死魚の様な目は大きく見開かれた。
 四つの瞳は冷たい水銀の上に凝りかたまった。
 上下にと引き分けられた厚い唇の間から非常に大きく乱杭な歯と細ー長い列とが現われて消えた。
 腐敗に赴いた死顔の様な二つの顔の筋肉は機械的に延びたり縮んだり、かたまったり、ゆるんだりする度に奇怪な絵の様な物凄く不完全な種々の表情が鎮まり返って居る鏡面に写っては消え、消えては写った。
 暫くの間その意味あり気な運動は繰返されると小さい灯は吹きけされ、外界から洩れ入る薄明りの中に鋭く青白い鏡の反射が一条流れた時小虫さえ憚かる囁きが繰返された。
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「お前は私の子ではないよ。
「ああ。
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        十八

 人々は異常な興味を以てお関を見て居た。
 彼那に云ったら何か云い訳位は仕て廻る事だろうと云う事が各自の頭にあった。
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「あんまり一生懸命で云い開きを付け様とでもすればそれこそ怪しいんですよ。
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等と、お関が一々事を分けて弁明して歩く事を十人が十人期待して居たのだけれ共、総てはそれとまるで反対に行って、お関はそんな事があるのですかと云う様なゆさりともしない様子を保ちつづけて、伝えられて行く噂さにビクとも仕ないらしく見えた。
 種々鎌をかけて此那事も彼那噂もありますと云って行ってもお関は静かに笑いながら、
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「まあ仰っしゃりたい様に云って居らっしゃるがようござんすわね。
 どっちに扇が上るかはお天道様の御心次第ですからね。今にどうかきまりましょう。
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と云う許りで、ちっとも周章てた暗そうな事がないので、いつとはなしに噂は下火になりかけた。
 お関は自分の作戦の成功を心で飛び立つ程喜びながら表面はあくまで平静らしく事のなり行きを見て居た。
 お関は正直者が勝を必ず占める世の中ではない事を知って居るのだった。
 人間は妙なもので、偽だと十中の八九までは分って居ても、嘘を云う者が余り押し強くその立ち場を守って居ると、却って、それじゃあ自分の方がと云う怪しみが湧いて来るものであ
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