長いものである。
まだ心の育ちかけの漸々赤坊と云う名からついさっきはなれたと云う様な時に「お久美さんは可愛い」と思い込んだのが一種の感情の習慣になって、お久美さんと云えば憎めないもの、可愛いものとなって来て居るのが気味の悪い位種々な時にフイフイと現われて来た。
※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子はお久美さんを疑い切れなかった。
はたの者がどんなに散々とこなそうともつまりの時にためらわぬ弁護を加える気持を持って居た。
そして、自分とお久美さんの間には何の隔りもなかった――女に有り勝な物質上の遠慮だとか嫉妬だとか云うものは完く姿をかくして居たのである。
女姉妹のない※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は子供の時からまるで年上では有っても妹に対する様な気持をお久美さんに持って居たので、勿論たまには不快に思う事又は激しい感情に動かされて殆ど普通に有り得ない気持になる事はあったとしても、揺がぬ基礎になって居るその感情は二人の永年の間をあきない丁度米の飯の様な味を出させて居た。
と、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は、その時もたった一人で思って居るのであった。
十七
其の頃から村中には、重三に対して種々な噂が立ち始めた。
誰が云い出した事かは知らなかったが、
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「お関さんと何て似て居らっしゃるんでしょう。
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と云う低いつぶやきが皮肉に彼処此処の村人の中に繰り返された。
勿論※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子もそれを聞いて寒い思いをした。
祖母は皆と共に嘲笑って居た。
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「大きい声では申されません事ですけれどね、どことなし似て居らっしゃる所が有りそうでございますね。
そんなにはっきりは分りませんけれど、どうもね。
怪しいものでございますよ。
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それ等の言葉は、要領を得なければ得ない丈、曖昧であればある丈、物ずきな人間の心に種々の想像を起させて、陰気に低くボソボソとそれで居てなかなか執拗に山田の家を被いに掛った。
云い出した者は勿論、お関や何かに積った悪意を持って居る者共だとは思って居たけれど、お関は気の顛倒する程の恐怖に襲われた。
自分で調える事をなし得ないまでに混乱した頭になって仕舞った。
非常に臆病になって蚊のつぶやき程の人の噂にも全身の注意を集めて聞き落すまいとし「お関」と云う言葉「重三」と云う声に霊の底の底まで震わせながらも、外見はちっとも常とかわらない落付き――年のさせる図々しさと虚勢を張り通す事を仕つづけて居た。
実際お関は平気らしく見えた。
少くとも彼女の周囲の者の目は内心の争闘まで見透かす事は出来ない事であった。
お関は平気で居る重三――我が子を見た。
冷笑を以て朝から晩まで自分を見る恭吉の眼を厭った。
何にも知らない様にしてせっせと人の仕事に口を出して町まで汗だくだくで日参して居る罪のない主人を見た。
そして自分の周囲には多くの目が芥一本も見のがすまいと自分等の行動を見守って居る事を考えると、正直な良心の攻めに合って、自分の生きて居ると云う事さえ堪まらない事に思えて来た。
お関は偽らない心で今日死のうか明日死のうかと云う日を続けた。
その時は、自分の死によって今までのすべての悪いと云わるべき行為が浄められるものだと云う様な感じを持って居た。
大病が自分を一瞬に引き攫う事も、天災が此の村全体を無に帰させて仕舞えばと云う事も真正直に望まれる事であった。
実際、お関は最後の逃げ場所を死に求め様として居たのである。
けれ共或る晩、お関は静かに自分の死ぬ方法を考えた。
種々の前例が目の前に行ったり来たりしたけれ共、一つとしてああそうやってと思う様なのはなかった。
頸を括ろうか、水に溺れ様か、喉を突こうか…………
彼れこれと思って居る内にお関は暗い床の中で反物屋の店先に立った様に左から右へそりゃあよくないそれもいけないと死に方を選んで居る非常に滑稽な自分を気づいた。
お関はこたえられなく可笑しくなって、思わずフフフフと云う笑さえ洩した。
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「死ぬなんて馬鹿馬鹿しい事が出来るものか。
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そしてお関の頭の中からは死の観念は全く姿を消して仕舞って、どうしたら巧く仮面を被り終せ様かと云う熱心がグングンとこみあげて来た。
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「ああ、ほんとにそうだ。
若し私が此処で死になんか仕様ものなら、そら見ろ気がとがめて死んで仕舞ったじゃあないかと云われるにきまって居る。
何と云われ様が死んで云い返すわけにも行かないから、ま生きて上手く
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