萄畑の方へ来て、入るのを怖れる様に入口の木戸を半開きにして、
[#ここから1字下げ]
「お久美さん居ないんですか。
 皆さんがお帰りですよ。
[#ここで字下げ終わり]
と大声を出した。
 喉が渇いた様な気のして居たお久美さんはすぐ声を出せなかった。
 暫く黙って返事を待って居た小女がもう一度、
[#ここから1字下げ]
「お久美さん居らっしゃらないんですか。
[#ここで字下げ終わり]
と云った時漸々、
[#ここから1字下げ]
「なあに。
[#ここで字下げ終わり]
と云って出て来たお久美さんの顔は小女が気味を悪くしたほど真面目に凝り固まって居た。
 非常に厳な気持でお久美さんが主屋へ行った時は山田の主人と新らしく来た人とが向い合って座って居るわきでお関が突き衿を仕い仕い大きく団扇の風を送って居る所だった。
[#ここから1字下げ]
「お帰んなさいまし。
[#ここで字下げ終わり]
とお辞儀をすると、山田の主人は機嫌よく若者の方を見ながら、
[#ここから1字下げ]
「はい只今。
 さあ、この人が重三さんと云ってな、今日から家の若旦那だよハハハハハハ。
[#ここで字下げ終わり]
と酒に酔った様な顔をして云った。
 お久美さんは又黙って頭を下げてお関の傍に座って下を向いたなり団扇を動かして居た。
 前よりもずうっと気が落付いて来て、澄んだ目で遠慮勝ちながら確かに若者の顔を見た時、お久美さんは淡い失望に迫られた。
 其の顔は如何にも下等に逞しくて、出張った頬の骨と小さく鈍く動いて居る眼[#「眼」に「(ママ)」の注記]い目とは、厚く垂れ下った様な唇と共に、どんな者が見たって利口だとは思えない表情を作って居る。
 お久美さんは丈の足りない様な紗の羽織から棒の様に糸織の袴の膝に突出て居る二本の真黒な腕と気味の悪い程大きい喉仏をチラリと見て、淋しそうな眼を自分の膝に伏せて仕舞った。
 お関夫婦は如何にも嬉しそうに下にも置かず待遇して有るっ丈の食物を持ち出したり、他愛もない事を云って笑ったりして居た。
 お久美さんは夢の醒めた様に飽気無い気がして、何処かの小作男の様な若者を何時しか湧き上った軽い侮蔑を以て見下して居た。
 始めて恭吉の容貌と挙動が人に勝れて居るのに気付くと共に此那半獣の様な男が自分の生涯の道連れであると云うのは余りみじめな、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子に対しても恥かしい事だと云う思いがどうしてもまぎらされなかった。
 果物などを食べながら皆がさも面白そうに下らない事を云って笑い興じて居る間に、お久美さんは独りで土間の前に立って、身の置き所の無い様な失望と激しい情無さで、さっきまでの喜びを跡片もなく洗い去る程の涙をポロポロとこぼして居た。
 生きて居ても仕様の無い様な淋しさが心一杯に拡がって来るので有った。
 翌日は午前に、重三はお関に連れられて近所廻りに行った。
 来た時の通りな装りをして足の下に隠れて仕舞う様な籐表ての駒下駄を履いて固く成ってついて行く様子を見送って、井戸端に居た恭吉は、
[#ここから1字下げ]
「へ、好い若旦那だ。
[#ここで字下げ終わり]
と云って嘲笑った。
 小女とお久美さんは其れを小耳に挾んで井戸端の方へ振向きながら、
[#ここから1字下げ]
「聞えると大事だよ。
[#ここで字下げ終わり]
と云って笑ったけれ共、お久美さんには、恭が濡れた手先をズーッとのばして白いシャツの腕で額の汗を拭いた時の様子が目に残って居た。
 一番先に道順でも有るのでお関は※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子の家を訪ねた。
 女中は、いつもになく改まって丸帯に帷子《かたびら》を着て、
[#ここから1字下げ]
「御隠居様はお居でですか。
[#ここで字下げ終わり]
と云ったお関にも驚いたけれ共尚々その後に控えて居る重三の様子にすっかり面喰った。
 其の様子を聞いた祖母も※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子もちゃんとした身じまいをしてわざわざ滅多に人の行かない客間を明けて通した。
 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は大方其の養子とか云うのだろうとは思ったけれ共黙って出て行って見ると、将してそうで、得意の鼻を高々とお関は二人に養子を紹介した。
[#ここから1字下げ]
「重三と申しましてね。取って二十六になりますんですよ。
 Y市の士族の二番目なんでございますがね、余り話が急にまとまりましたんで、まだ何処様へもお話し申して置きませんでしたから、さぞ喫驚遊ばしたでございましょうねえ。
 行き届きませんが、どうぞ何分よろしく御願い申します。
[#ここで字下げ終わり]
 祖母は流石年を取って居るだけあって度魂を抜かれながらも、
[#ここから1字下げ]
「まあそうですか。
前へ 次へ
全42ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング