でもない」静けさで被うて居ようと自分の前に努力《つと》めて居るいじらしい様子を見ると、余り可哀そうな之からの事を思うて※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は口も利けない様であった。
 自分はあまりひどくお久美さんを悲しませない様に見守って行く丈なのだ。
 歓びには極が有る。喜びに躍る心は自分で鎮められる時は遠からず来るものである。
 けれ共悲しみの深さは量り知れない。
 心の底の底まで喰い入って行く悲しみの中に、静かに手厚く慰める者の有る事は決して無駄には成らないと※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は思って居た。
 歓ぶ者の前に其の歓ぶ者を悲しむ者が居るのは痛ましい事だ。
 ※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]子は二つ年上の「娘」を種々な思いに耽りながら眺めて居た。

        十一

 辻へ行ってからのお久美さんは実に優しい可愛い娘で有った。
 絶えず輝いて居る顔、静かながら情の籠った声は、辻の全家族に好い感じを起させた。
 主人は神の御恵に浴し得た霊の輝きだとか何とか云って居たけれ共、主婦や老人は延々としたお久美さんの体を頼もしそうに眺めながら、
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「好い娘さんになりましたねえ。
 年頃と云うものは争われないもんですねえ、先の時分は痩せた様な体をして居なすったっけが、声でも何でもまるで違う。
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と笑いながら云って居た。
 赤い着物に包まった赤坊をお久美さんは宝物の様な気持で抱く事が出来た。
 世界中の事と人とが皆自分の為に動いて居る様で、哀れな者に恵まずには居られなかった。
 人の罪を庇わずには居られなかった。
 今まで無心に繰し[#「繰し」に「(ママ)」の注記]て居た祈祷も今は明かに自分の慰めと成り、神の名を一度称える毎に心が高まって行くのを感じて居た。
 朝夕の祈りに敬虔な気持で連り、静かな夜の最中、冴え渡った月の明るい時などには云い知れぬ霊感に打たれて、髪を震わせながら涙をこぼす事さえ有った。
 お久美さんの身内には幸福が血行と共に高鳴りして居るので有った。
 一日一時を非常に長く、お久美さんは四五日の日を送った。
 六日目の日午後から三人で帰ると云う知らせを受けて、お久美さんは体中が堅く成った様に感じながら村の家へ帰った。
 黙ってせっせとそう片付け栄えもしない家の中を掃除して、珍らしく掛花に昼顔の花を插して見たり、あやしげな山水の幅を掛けたりして漸う家らしくなった中に、小ざっぱりと身じまいをして薄く白粉さえ付けたお久美さんは喜びと恐怖の混じった表情を面に浮べて立ったり座ったり落付きなく動いて居た。
 畑地を隔てた彼方に白々と続いて居る町からの往還をながめやったり小女のせっせと土間を掃いて居る傍に訳もなく立って見たり、遠い向うの木の間から三台の人力が小さくポコポコと立つ砂煙りの中に走って来るのを見つけるまでの間は、お久美さんにとっては居ても立っても居られない苦しい時の歩みであった。
 三つのチョコチョコと動いて来る者を見つけると、お久美さんは無意識に顔を火照らして、掛鏡で一寸顔をのぞくと、大いそぎで裏へ出て仕舞った。
 豚の騒がしい鳴声の聞える小路を行ったり来たり仕て居たけれ共それでもまだ好い隠れ場所では無い様な気になって、まだ果の青い葡萄畑へ入って行った。
 徐々《そろそろ》陰って来た日影は茂った大柄な葉に遮られて涼しい薄暗さを四辺《あたり》一杯に漂わせて、うねうねと曲りくねった列に生えて居る其等の幹と支柱とを隙して見る、向うの斜面の草地、すぐそばの菜園等が皆目新らしくお久美さんを迎えた。
 番小屋に腰を下して立て並べた膝に支えた両手の間に顔を挾んで安らかな形に落付いたお久美さんは眼を細めて、葉擦れの音と潤いのある土の香りに胸から飛び出しそうな心臓の鼓動を鎮め様と努めた。
 けれ共総ては無駄で有った。
 漸う息苦しくない呼吸を始めた時、いきなり耳元で途轍もなく大きな声が、
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「旦那、どっちから入るんですえ。
 向うからですかい。
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と怒鳴った事によってすっかり乱されて仕舞った。
 山田の主人が、
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「うん向うから。
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と云う声を夢の様に聞きながらお久美さんは両手をしっかり握り合わせて化石した様に夕闇の葉陰から音もなく這い出る中に立って居た。
 間もなく主屋に人声がざわめいて、
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「お久美は一体どこへ行ったんだい。
 お前捜してお出で。
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とお関が云って居るのも手に取る様に聞えて居たけれ共お久美さんは動こうとも仕なかった。
 パタパタと草履を叩きつける様にして小女はズーッと葡
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