ずにいられることは結構です。あなたはまだお若い。苦痛もしのげます」
そう云いながら懇《ねんご》ろな風で執っている朝子の丸々とした手の甲を軽くたたいた。「ありがとうございます」朝子はつい泣けそうになった。ヴェルデル博士の励ましかたは、何かのときよく父親の佐々が朝子の手をとってすると全く同じ表現であった。ヴェルデル博士に情のこもった軽打《パット》をされると、その刹那に朝子の心には悲しそうに伏目になって唇の両端を拇指と薬指とで押えるようにしている父親の親愛な表情が泛んだ。高校生であった保を喪った父の悲痛な気持が、たまらなく思いやられた。もし朝子がいたら、父は自分で涙をこぼしながらも、きっとやはりそういう風に娘の手をとって、それを握って、そして自分と朝子とを励ましただろう。自分がこのことで帰ったりはしないという気持をもっている、その心持も、苦しさや悲しさがこうして相通じているその心の流れのなかで父にはわかるだろう。朝子は考えに沈みながら、露台の方へ出て行った。
昔プーシュキンが勉強した学校の校長の住居であったというその下宿は、菩提樹や楡の繁った大公園に向っていて、二階の広間から、木の手摺の
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