技師と、一人おいた左隣りに坐っている白粉の濃い女との間に、何のきっかけからかトルストイが最後に家出をした気持がわかるとか分らないとか云う押問答がはじまった。技師は、間の一人をとばしてその女に話しかけるために縁無し眼鏡をかけた顔を食卓の上にのり出すようにして、「聰明なあなたにその心理が分らないことはないでしょう」というようなことを云った。するとそのエレーナという女は、「まあ」とどことなく自然でない昂奮のかくされた笑顔で、
「でもそれでは、良人として家庭への義務を忘れたことですわ。ねえ、マーリア・フョードロヴナ」
といきなり向い側にいる技師の細君に話頭を向けた。
「私はトルストイの場合として、理解されると思いますよ」
白い髪の幾条か見える細君はおだやかにフォークを動かしながら普通に答えている。そこには何か感じられる雰囲気があるのであった。
朝子と素子とヴェルデル博士と三人で、二|哩《マイル》ばかりはなれた野の中に建っている廃寺へ壁画を見に行って、ぐるりとその堂の裏手へまわったら、思いがけない灌木の蔭でその技師とエレーナと腕を組み合った散歩姿で来るのに出くわした。どっちからも、もう避ける
前へ
次へ
全22ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング