ずにいられることは結構です。あなたはまだお若い。苦痛もしのげます」
そう云いながら懇《ねんご》ろな風で執っている朝子の丸々とした手の甲を軽くたたいた。「ありがとうございます」朝子はつい泣けそうになった。ヴェルデル博士の励ましかたは、何かのときよく父親の佐々が朝子の手をとってすると全く同じ表現であった。ヴェルデル博士に情のこもった軽打《パット》をされると、その刹那に朝子の心には悲しそうに伏目になって唇の両端を拇指と薬指とで押えるようにしている父親の親愛な表情が泛んだ。高校生であった保を喪った父の悲痛な気持が、たまらなく思いやられた。もし朝子がいたら、父は自分で涙をこぼしながらも、きっとやはりそういう風に娘の手をとって、それを握って、そして自分と朝子とを励ましただろう。自分がこのことで帰ったりはしないという気持をもっている、その心持も、苦しさや悲しさがこうして相通じているその心の流れのなかで父にはわかるだろう。朝子は考えに沈みながら、露台の方へ出て行った。
昔プーシュキンが勉強した学校の校長の住居であったというその下宿は、菩提樹や楡の繁った大公園に向っていて、二階の広間から、木の手摺のついた露台に出られた。隣りとの境に扇形に梢をひろげた楓の大木があって、その蔭に灰色の塀がめぐらされた隣の家の扉が見える。往来をへだてて公園の入口があった。緑の間に鉄柵が見え、午睡の時刻で、そのあたりには人影も絶えている。緑の濃さと強い日に光っている広い道の寂しさには、北ヨーロッパらしい風景の或る美しさがあった。籐のはぜかかった古い揺り椅子がそこにあった。
一昨日電報を読んだ瞬間、受けた衝撃のうちに、既に実に複雑なものがこもっていた。朝子は自分が気を失うようになった打撃のうちには、謂わば自分がここにこうしている、その現実をもたらしているあらゆるものが、まるで逆にとめられていることを身に迫って感じた。
十を越したばかりの妹のつや子のことは分らなかったが、上の弟の和一郎とも朝子自身とも保の気質はすっかり違った。保が、赤いポンポンのついた帽子をかぶっていた小学の二年ぐらいのとき、或る朝、学校の前にある緩くて長い坂のところで同級の友達たちが何人か群になって、そこをギーギー云いながらのろくさくのぼって来る電車を追い越そうとして、一生懸命電車のわきを走っているのを見つけた。保はその電車にのってい
前へ
次へ
全11ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング