なことをするなんて。何てばかだろう。朝子は激しく嗚咽しながら廊下を足早に歩いた。もすこしで部屋のドアというところまで来たとき、黒と白の市松模様の床石が足の下ですーんと一遍もち上って急に沈んでゆくような工合になって、立っていられなくなった。そこまでのことははっきりと思いだすことが出来るのであった。それから、部屋で、震えがとまらないでいる体から着物をぬがされながら自分が頻りに、よくて? 私は帰ったりしないことよ。よくって? と繰返したことも。涙で顔をよごした素子が、ああいい、わかってる、わかってる、と云いながらベッドに入れた朝子のまわりをきつく掛けものでつつんだ。とびとびにだが、情景がみんな思い出せる。けれども、それらは如何にも遠いことのようで、僅か一昨日の出来ごとと信じられないような気分がする。しかも、半分失神していたような状態から意識をとり戻した今、朝子が感じているのは、あのときまではまるで生活になかった一つの真新しい飾り気ない悲しみである。保が死んだ。――涙の出ない歔欷《すすりなき》のようなものが再び腹の底から起って仰向いている朝子の唇を震わせた。
 足許のドアがそっと開いて、素子が入って来た。ベッドに近づいて朝子が目をあいているのを見ると、咄嗟《とっさ》に表情に出た安堵と憐憫の感動をそれとなし抑えた声で、
「気分は?」
と云った。
「眠ったらしいから、もう大丈夫だ、ね」
 そして、わざと心持にはふれずに、
「ともかく電報うっといたから」
と云った。
「帰らないということとお悔みとをうっておいたから」
「それでいいわ。ありがとう」
 その昼、朝子はすこしおくれて素子に扶《たす》けられながら食堂へ出た。窓に並んでいるゼラニウムの赤や桃色の満開の花鉢、白い布のかかった食卓の上に並べられている食器も、それに向ってかけている男女の顔ぶれも、いかにも下宿らしく、何ひとつ一昨日と変ったことはない。けれども衰弱している朝子の神経にはそこいらにあるのが妙に目新しく、一人一人の顔もくっきりとした輪廓をもって心に映った。食事がすむと、頭をすっかり韃靼《だったん》風の丸剃りにした技師をはじめ居合わせた人々が、朝子に握手して悔みをのべた。ヴェルデル博士と呼ばれている小柄で真面目な老人が最後に朝子の手を執って、地味な楔形の顎髯と同じに黒い落着いた眼差しを向けながら、
「そうやって勇気を失わ
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