おもかげ
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)桃花心木《マホガニー》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大変|愧《はずか》しいことだと思ったと、
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 睡りからさめるというより、悲しさで目がさまされたという風に朝子はぽっかり枕の上で目をあけた。
 夏のおそい午前の光線が、細長くて白い部屋の壁の上に窓外の菩提樹の緑をかすかに映しながら躍っている。その小さい部屋に湛えられている隈ない明るさと静寂とはそとの往来やこの町いっぱいつづいている感じのもので、臥ている朝子の今の悲しさとよくつりあった。明るさも海のようで、朝子はその中に仰向けに浮んだように目瞬きもしなかった。
 桃花心木《マホガニー》色の半円形のテーブルの上のコップに、日本の狐のしっぽのような穂草や紫色の野草の花が插さっている。一昨日この下宿《パンシオン》のあるデエーツコエ・セローの公園のずっと先の広い野原で夏雲を眺めながら摘んで来た花であった。しかし一昨日の宵からきょうまでの間は、ぼっとなってい、朝子に思い出せるのはその間に一度いつだったか素子に抱きおこされてベッドの上で何かのスープをのまされたことだけである。電報を読んだのは一昨日、夕飯がすんで皆が食堂から広間へ出た時であった。広間の帽子かけには大きい水色リボンのついた帽子が一つかかっていた。その横でそれを受けとって、あけて、読みにくいローマ綴りの字を辿ると、そこには八ガツ一ヒタモツドゾウチカシツニテシスアトフミと一並び書いてあった。それは返電で、二日前にシキウキチョウアリタシと打たれて来た。そのとき朝子は電報をみて、説明も与えずいきなりそう云われていることに心持を害された。ジジョウシラセ。直ぐそう云ってやった。待っていた電報であり、待っている間の落着かなさから、その午後も素子と二人きりで草臥《くたび》れるほど遠くの原っぱの方へまでも行ったのであった。
 八ガツ一ヒタモツドゾウチカシツニテシスアトフミ。
 朝子は無言のまんま、一足おくれに食堂を出て来た素子にその電報をつきつけるように渡した。ひき搾られるような朝子の顔つきに駭《おどろ》いて素子が電報に目を落した。堪えがたい全身の心持をどう表現していいか分らず、朝子は握りつめた片手で何度も空をうつようにしながら呻いた。本当に何てばかだろう、こん
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