俗であるものが、何となし只通俗ではないのだ、という様子ぶった身構えで登場していて、この三四年間の健全な文芸批評を失った読者の、半ば睡り、半ば醒めかかっている文学愛好心の上に君臨していると思われる。純文学の仕事をする作家が新聞小説をもかくことで、新聞小説の在来の文学的制約をたち切り、その質を高める方向へ作用することは至難であって、今までのところ、いつしか純文学の水準をそちらの方へ適応させて行っているのではないだろうか。
 この事実のうちには、複雑なものがこもっている。私小説、身辺小説からよりひろい客観的な社会性のある小説への要求が起った時代、ひきつづく事変によって変化した世相が文学のその課題の解決を歪めてずるりずるりと生産文学へひきずりこんだ。それと同様に、一応野望的な作家の心に湧いたより活溌な、より広汎な、より社会的な文学行動への欲望が、その当然な辛苦、隠忍、客観的観察、現実批判の健康性を内外から喪失して、しかも周囲の世俗の行動性からの衝撃に動かされ、作家のより溌剌な親しみのある文化性のあらわれであるかのような身ぶりをもって、新通俗文学の産出にしたがいはじめたと観られる。

     
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