簡単に云い得ないけれども、文学についてみれば、或る作家たちが目下器用にこなしているこの両刀使いの方法は、少くとも、作家と読者との関係を文学の面で従来より高めたという結果は導き出していないのが、現在の実際だと思う。
 読む心持のあり場所が、はじめは純文学作品の方にあってその人の新聞小説も読まれたのかもしれないが、だんだん新聞小説独特の空気に浸透されて来て、いくらか寝そべったような態度が、遂には純文学作品の体臭、身ごなしまで及び、書く方も読む方もそこで馴れ合ってしまっているような危険が非常にある。この現実のなかで、文学は決して本道的な成長をとげつつあると云えないと思う。
 過去の時代では、その呼び名がふさわしいか否かはおくとして、とにかく通俗作家とそうでない作家との区別は、ひとにも自分にもはっきりしているところがあったと思う。だから、吉屋信子さんが『大毎』『東日』に連載小説をかくようになったとき、それを通俗作家としてのゴールインとしてよろこんだということも、それなりに肯けるのである。

          二

 今日、事情はそんなに素朴簡明ではなくなって来ている。飾りなくいえばはっきり通
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