と文学のなかのこととして考えるべき点をもっているように思う。今日、作家としてすこし野望的なひとは、新聞へ連載小説をかくということについて、一様に積極的な乗り気を云わず語らずのうちにもっているように見られる。そして、それが、文学の大衆性への翹望などというものから湧いている気持ではなくて、当今、人気作家と云われている作家たちは阿部知二、岸田国士、丹羽文雄その他の諸氏の通りみな所謂《いわゆる》純文学作品と新聞小説と二股かけていて、新聞小説をかくことで、その作家たちの人気が量られているような状態から何となく刺戟されている気分と思える。
数年前、日本の社会経済の事情から、絵画がひどく売れなくなった時期があった。その前後に、これまでは決して插画を描かなかった小村雪岱、石井鶴三、中川一政などという画家たちが、装幀や插画にのり出して来て、その人々のその種の作品は、本格的な画家であるが故に珍重されつつ、その半面ではそのことで彼等の本格の仕事に一種派手やかな目を注がせる雰囲気をつくるものとなった。
画家の本道的な業績を、大局からみてこの新しい関係が高めたか、或は通俗に堕す部分を生ぜしめたかということは
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング