も、ロンドンに行って後、非常に鮮明に、日本の文化的伝統とヨーロッパの文化的伝統との相異を、その社会的歴史の背景の前に認めた芸術家の一人であったが、それは、漱石にあっては、当時の日本の文学的水準にとって瞠目的な価値をもっていたイギリスの十八世紀文学の研究と文学評論とを生ましめた。同時に、日本の義理人情というものをも客観的に把握し解剖する力を獲得した。漱石自身のうちに時代的な意味で影響をのこしている義理人情をも、その観察の鏡にうつして眺めるようになった。小説の中で、彼は、旧来の義理人情というものが自然であるべき人間相互の関係を歪め、そこから生じた不調和や偽善に対して、人間的な、自覚をもつ我《われ》、及び自然的人間情緒が捲き起さざるを得ない軋轢《あつれき》と相剋とを描き得た。「それから」「門」「彼岸過迄」等、いずれもこの点で当時の日本人の発展的な内部生活を反映していたのであった。彼が、目白の学習院へ招《よ》ばれ、フロックコオトを着て述べたところの講演は、若い公達等に、人間性の自覚の必要を力説したものであった。
漱石は、飾らない言葉で一面では日露戦争後の日本人の盲目的なヨーロッパ崇拝を罵倒し
前へ
次へ
全20ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング